映像という風 
日々の泡, 随想

映像という風 

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Photo@「リリーのすべて」『The Danish Girl』

 

 

 

 

 

 

普段、快楽をモットーに生きて感じているわたしだが

こと映画に関しては滅多に快感を覚えない。

 

映像というのは、読んだり鑑賞したりする本や美術品とは違い、

視覚と脳で瞬間的に反応するものだから

その場であっ、とならなければ意味がない。

 

 

心が動かないのにどうして映画作品といえよう。

 

 

世の中には、退屈な映画を前に

「きっとどこかいいシーンがあるだろう」

 

と宝探しをしながら最後まであきらめずに

時間を過ごす人もいるらしいけれど

 

わたしは自分の中でダメというサインを感じたら

どんなに売れていて有名な映画でも途中で放棄し、

映画館を去るのが常だ。

 

 

今年も何作かそんなことがあったが

そもそも感動していないので

映画のタイトルすら忘れてしまった。

 

 

 

それよりも、愛すべき傑作があった。

 

 

良い映画というのは、ひとことでいえば佇まいがいい。

 

はじまった途端、終わらないで終わらないでと思わせる

圧倒的な存在感がある。

 

 

 

そういう画面は映像美もキャスティングの良さもカメラワークも

 

すべてにおいて作品への愛が本物で、

監督はもとより、スタッフのメンタルの奥行きが何重に感じられるものだ。

 

 

映像作品という2次元の世界観は、

不確かな朝霧のようなかすみが目の前に無限に広がってゆき

 

物語が進むにつれ、そのずっと遠くにある

純然に満ちた感情に触れさせてくれるかもしれない

 

そんな束の間の幻想に似ている。

 

 

その透明度は、スクリーンから放たれる

2次元の平面画像の先が

わたしたちの集団無意識につながっていて

 

そこから絶対に帰ってこないはずの

「ついさっきまでの記憶」へと

つながっているのではないかと思うほどの深さなのだ。

 

 

 

そんな忘れがたいと思わせてくれる映画の画面には

よく風が吹いている。

 

 

風は、いとも自然にわたしを作品の世界に招き入れる。

 

 

時に頬をサラサラとなでてゆく

木漏れ日のただなかにいるような心地になったり、

 

強い風が耳鳴りのようにいつまでもザワザワと耳の奥で

画面と同じように吹き続けている。

 

 

 

今年、もっとも忘れがたい一遍となった

「リリーのすべて」 『The Danish Girl』(トム・フーパー監督作品)。

 

 

この映画から吹く風は、海岸から吹き上がっていた。

 

 

岸壁から風の吹く空の、

遠さ、遥かさ、せつなさの佇まいがあまりにも繊細で

 

 

いつもは自覚していない深いところまで浸透し

満ち満ちて、満ちて果て

 

なにもかも溢れかえり

 

観終わったあと素晴らしい放心状態が訪れる。

 

 

 

いまも、映像美や構成だけでは語れない風が、

わたしの中で吹きやまない。

 

 

 

風は言う。

 

 

「どれだけ哀しい思い出であっても

わたしたちは生きていくの」

 

 

 

映画が哀しいのではない。

 

 

わたしたちの抱いているそれぞれの記憶の断片が

哀しみを思いだすのだ。

 

 

 

映画は、それが視覚幻像として

すべてのひとに静かに降りそそぐ。

 

 

夜の雪のようにしんしんと積もってゆく。

 

 

真っ白な景色に運ばれて

「泣いてもいいのよ」と彷徨う星が言う。

 

 

 

風が吹きわたる。

 

 

空虚な空へ、哀しみの昨日へ

 

都会の街角に、窓に、テーブルに、読みかけの本のページに

 

 

あの日劇場でスクリーンに痺れていたわたしに。

 

 

放心の悦楽のさなかに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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