そうして夏草の陰からいつも
写真論, 日々の泡, 随想

そうして夏草の陰からいつも

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暑いのは大の苦手なのに、
ここ数日、頻繁に散歩へくりだしているのには訳がある。

 

 

 

パソコンの前に前のめりで張りついている時間が長いからだ。

 

そして、これも苦手な作業だ。

 

 

普段、フリーランスで活動し、明確な締め切りに追われていない

リズムで生きているわたしにとって

 

タイムリミットが迫っていると知りながら

夕暮れの散歩に出かけたり、こうしてテキストを書くことは

現実逃避以外の何ものでもなくて

いま、こうしてあなたに語りかけている最中でも

脳と指先がバラバラに動いている感じがする。

 

 

その作業とは、過去5年ほど遡ってに撮りためた

自分の写真を形あるものにまとめること。

 

 

今月中に終わらせなければならないのだが、なぜか一向に進まない。

 

 

だんだん焦ってきて泣きそうな顔になっているのが自分でもわかる。

 

 

そんなヘタレなわたしの心境を察しているのか、

猫たちがMacデスクの前に鎮座してじっとこちらを見つめている。

 

 

ねえ、酷い顔してるわよ。
そんなことどうでもいいじゃない、遊んでよ。

 

猫テレパシーで聞こえる。

 

 

 

そんな作業中、久しぶりに再会した写真を見ていると

ついその時の思い出に浸ってしまい時間ばかり過ぎてしまうのだ。

 

 

部屋の大掃除をしていて昔のアルバムや

思い出の品を発見して手に取ったが最後、

 

一気に時間を引き戻され、動けなくなってしまう・・・

あの心境とまったく同じだ。

 

 

過去に撮った自分の写真。

 

 

撮影当時、何十回も繰り返して見たであろう真剣なまなざしを

数年後のいま、改めて対峙するときがきた。

 

 

 

「写真」の特徴であるこの時空の裂け目のなかに自分が存在する日々。

 

 

洗い出し作業はさまざまな自分の弱さが浮き彫りになる。

 

フレーミングも甘さ、光構成、スケールの小ささ、

表現イメージの狭さ、未熟さ、

被写体や視野能力の狭さ、テーマへの詰めの甘さ、

客観性、冷静さ、緊張と緩和のバランス、

 

旅先でのコミュニケーション能力の欠如、

 

なにより、トータル的な人間力と

個性に乏しいことを痛感しながら直視している。

 

 

 

きっと、写真を愛するひとたちの共通の願いは

「もっとよい写真」なのだろうと思う。

 

 

わたしの場合、お仕事の写真ならアドバイスは受けやすいし

方向性も提示しやすい。

 

 

その理由は、商業的な写真には明確な目的があるからだ。

 

 

どのような使用価値があるのかという

写真を求める側の要求をいかに満たすのか、

ということに焦点を当てて撮影し作業すればいい。

 

 

その上で、クライアントの予想以上の驚きや

付加価値を与えられるようこころをこめて集中するのだ。

 

 

 

けれど、誰の指示もなく、求められてもいない写真を

わたしだけの意志で撮るとき

その善し悪しをどうやって判断すればいいのか未だに悩ましい境地になる。

 

 

ここでの精神性はやはり、ゼロ、無、でいたい。

 

 

過去のどんな写真でもシーンのひとつでも

それぞれ物語があり、イメージの広がる良い写真・・

 

などと悦に入ってはいけない。

 

 

本当の意味で、世界には必要のない写真の方が圧倒的に多く

 

そしていま、こうして呼吸をしている間にも

その不必要な情報は垂れ流され続けている。

 

 

 

わたしの肌とシャツを吸い付ける汗を感じながら歩く8月の木陰。

 

夏草の茂みは鮮やかでとろけそうな濃度を抱いている。

 

 

「良い写真とはなにか」

苦しいほど匂う夏の緑に囲まれて

取り憑かれたように考える。

 

 

普段、わたしの意思とは関係なく目に入ってくる写真は

多くの場合、商業的な写真ではなく個人の作品だ。

 

 

PCやスマートフォンを見ているとすでに世界中で

プロ、アマに関わらず良い写真を撮る人を時々発見する。

 

 

そこで出逢った「良い写真」はすべてその人だけのテイストがある。

 

 

「良い写真」を撮る人の作品を長く見続けていると

「最近凄くいい写真が続いている」とか

 

「今日更新したの写真、イケてないじゃん」

 

という勝手な、けれど、世間の絶対的な大きなうねりのような

ルールがわかってくる。

 

 

 

正確には、その人の写真が理解できるのではなく

自分の写真に対するバロメーターが現れるのだ。

 

 

 

偶然出逢って気に入った特定の人の写真を

そんな風に見続けることは、

ほかならぬわたし自身の写真を評価する

最高のレッスンになっていることにも気づいてハッとする。

 

 

以前、わたしは、著名な写真家やアーティストにお逢いすると

必ず聞いていたことがある。

 

 

それは、

「どうすればもっと良くなるのか?」だ。

 

 

 

アーティストでなくとも、なにかに夢中になって

愛のある活動をしている方であれば

似たような心境になるのではないだろうか。

 

 

 

けれど、この質問は大いなる危険を孕んでいる。

 

 

わたしは、過去、自分の作風のアドバイスを受けるたびに

その後の写真が乱れてしまったのだ。

 

 

わたしにしか撮れない写真を撮りたいのなら

その答えをひたすら自分に問い続けるしかない、

という至極当たり前でシンプルなことを

わざわざ乱されてしまいかねない行為なのだ。

 

 

 

そして、他者から戴いたアドバイスと

この気づきの間には、タイムラグがある。

 

 

時間が経ってから自分が自分で蒔いた種だとわかるのは

スリリングを通り越した鈍い痛みを感じつづけることになるのだった。

 

 

どこからか悪魔が降りてきて、

その手で内臓を締め付けられているような重く深い痛みだ。

 

 

傷口を癒すのにも時間がかかる。

結局、わたしの中から本当に「欲しい」ものがわき上がるまで

ひたすら自分とわたしの写真と向きあうしか道はないのだろう。

 

これは孤独で辛いことだ。

 

 

アーティストの宿命とも言えるこの孤独さから

逃げないことだけが唯一、

自分で呼吸ができているということなのだとも想う。

 

 

先日、ハッセルブラッド国際写真賞を受けたカナダのアーティストの

インタヴューを読んだ。

 

 

 

「長く写真をやっている僕ら現役フォトグラファーにとって

いま、最高の時代だと思います。

 

 

撮った画像をその場で確認でき

35mmカメラの軽量フルサイズで

画像はミディアムフォーマットなみのクオリティを保てる。

 

 

 

ズームレンズは高性能になりレンズ交換で

どんな被写体にもフィットするような選択の自由がある。

 

暗がりでもシャッターチャンスを逃すこともない。

 

これだけいい機材が揃っていて自分の撮りたい写真を撮れなければ、

その責任はすべてその人にあるとしか言いようがないのです」

 

 

 

夏の草陰に悪魔の声がした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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