なにげない風景のなかで
写真論, 日々の泡, 抽象風景, 随想

なにげない風景のなかで

 

 

 

 

身近な場所で身近なものを撮る、

一見簡単なことのようだけれど

実際にこれを実行している人は

案外少ないのではないだろうか。

 

写真を趣味とする人たちからのご相談も

このテーマに関することが多い。

 

さらに

「若い頃のように感動しなくなったから挑戦したくともできない」

と思い込みの激しい言葉も耳にする。

 

どうやら写真を趣味や仕事にしている人たちの多くが、

撮影というと機材をかついで山を登ったり

風光明媚な場所へ旅行へ出かけたり

という固定したイメージがあるらしい。

 

いわば、非日常の瞬間を撮ろうとするのが

写真作品だと思いがちなのだ。

 

もちろん、それはそれで

写真の醍醐味であることは間違いない。

 

けれど、そんな人たちのうち

どれだけの人が、日常の光景に目を向け

記録の本質を見失っているだろうか。

 

もしかすると、ベテランほど

身近なところが盲点になっているかもしれないと思うことがある。

 

 

手前味噌で恐縮だが、わたしの姪っ子は現在16歳。

乙女感度360% いまどきのキラキラ女子高校生だ。

 

彼女には幼い頃からカメラを渡し、

好きなように撮ってもらっている。

 

姪っ子はときどき、気まぐれに写真データをメールで送ってくれるので

わたしはその記録を楽しみにしているのだ。

 

どうじに、彼女の純粋性や

写っている世界観に改めて気づかされることが多い。

 

わたしから視てもお手上げ、

というくらい素晴らしい写真を撮る恐ろしき16歳。

 

スキルやマニュアルなど全く知らないし、

何の制限なく勝手気ままに撮ってもらっただけの記録たちは

どこまでもまっすぐで、真正面で

世界と向かい合っていて、

 

その時の気持ちが永遠に続いているような錯覚を起こさせてくれる。

 

 

学校の友達、家、食卓、塾、ピアノの練習

映画館、自転車で遠出をした帰り道

庭の花々、ソファで居眠りする2匹の猫

 

夕方になると遠吠えする隣の飼い犬

水しぶきが細やかに光る公園の水飲み場

ひまわり越しに揺れる河原のススキ

その手前にいる友達の長い髪・・・・

 

何気ない生活の中の一場面の中で

気のおけない友人たちや家族と一緒に過ごし、

ささやかだけれど大切と感じる瞬間。

 

 

それらはたとえこの先、何年たった後でも

記憶から再構築されるはずのイメージ、

 

また、過去の記憶を呼び覚ますだけではなく

これからもあり続けるだろうという

安堵の感覚に結びついている。

 

そして間違いなく彼女にはかけがいのない時間、

つまり「記録」なのだ。

 

 

しかしながら、これらの風景は彼女以外の人でも

どこかで見たことがあり、

記憶を呼び覚ます風景であるはずだと思う。

 

身近な場所、身近な人を撮ることは

ありきたりではあるけれど、写真表現の基本だからだ。

 

大人になるとあまりにも見慣れた光景に

シャッターを切る気持ちが薄れて

つまらなくなってしまう、という声も聞く。

 

たとえ撮っても、

発表するのが気恥ずかしいという人もいる。

 

けれど、他人から見れば、

その何気ない光景のなかに

朝食の団欒の空気感が感じられたり、

 

友人の瞳の中に、身近な人にしか映らない

秘密の悩みが隠れているものなのだ。

 

これほど素直な写実はないではないだろうか。

 

確かに人は新しい発見が好きだ。

 

そういう意味では写真を撮ること自体も

知らない世界の発見につながる。

 

だから身近な存在や風景に

新しさを見つけ出すことは決してやさしくはない。

 

だからと言って、日常はすべて古く

感動するものがないというのは甚だ間違いというもの。

 

冒頭の「身近なものを撮る行為が苦手」と決めつけていると

感度が鈍ったまま、

自分以外のなにかへ逃避していることにもなりかねないのだ。

 

そこで、わたしは

「記録してもしかたがない」と言っている人へ

あえて身近なものへ時間を意識して視るようにおすすめしている。

 

 

たとえ見慣れた同じ場所でも

時間をずらして散歩へ出かけると

全く違った視点で見えてくることがあるし、

 

時には、なにも考えずに

自宅の窓からぼーっと空に流れる雲を追いかけてみたり

 

たすら好きな音楽を聴きながら

そこからイメージした色や形を発見することもある。

 

日頃栄養不足になっている自分の五感に

「どう調子は?」

と声をかけてあげるのも自分の世界を確認できる。

 

そうしてからカメラを持って周りを見渡すと

違う風景が見えることも経験してほしい。

 

 

時間の針を「ゆっくり回す」ことをしてみると

その瞬間を切り取ったはずである写真に

「前後の時間まで写り込んでいる」ことを発見したりする。

 

それこそが「空気感」と呼ばれるものなのだろうと思う。

 

 

慌ただしい日常の中でゆっくりと時間の軸を持ってみる。

 

そして、じっくりとものを視て、五感で考える。

 

もしかしたら

誰にもじゃなされない贅沢な時間を

持ち続けることの方が

 

ドラマティックな写真を撮るより、

ずっと難しいのかも知れない。

 

 

風光明媚な風景や非日常ばかりこだわって

感度が濁っていると自覚していたら、

 

「ゆっくりものを視る」ことによって

生まれる「瞬間」とはなんだろう?

そこを意識するだけでいいのだろうと思うのだ。

 

 

散歩中に振り返った瞬間とか、

急に降り出したスコールの雨宿りの匂い

朝30分早く起きたときの街の音とか

 

あえて時間を意識しながら、

シャッターも「ゆっくり」押してみると

その少しのタイムラグが

大きな時間と空間の変化になってゆくはず。

 

カメラは瞬間という時間を切り取る機械にすぎない。

その瞬間は、永遠の時間の中の一コマであり、

 

あなたがその時間の流れをどう感じたか?

それが写真に写ると思ってみるといいだろう。

 

だから、その場所が遠くても近くても

どこに誰といても

視る人の感度次第で

世界はどこまでも広がるのだ。

 

 

最後に、

無限大の可能性を秘めた姪っ子の

去年の画像をどうぞ。

 

 

フランス・ジベルニーのモネの庭に行きたいらしい・・・・

 

 

 

 

 

写真を撮ったのはここ

→ https://www.kjmonet.jp/garden_of_water.html

 

 

 

 

https://www.amazon.co.jp/dp/B01M5EPZL9

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