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「どこか遠くに行こうと思うんだ」

 

Kさんからある日突然メールが来た。

 

 

わたしは月島の写真事務所を辞めて、

研修生という口実で日本を脱出し

念願のパリ生活にようやく慣れた頃だった。

 

 

Kさんは写真関の仕事仲間ではあったけれど、

 

人のことにとことん関心がなく、

人の名前と顔が一致しないのが常だったので

メール受信のとき、顔が浮かばなかった。

 

 

日本ではいつも一匹狼だった。

 

 

うろ覚えながら、Kさんもどこか

わたしと似ているところがあった気がする。

 

 

それを証拠のように、わたしが出没するバーやクラブで

夜に彼となんども遭遇していた。

 

 

大音量の音楽が聴覚を鈍らす

アンダーグランドな酒場ですれ違うKさんの

バカみたいに冷静な横顔は、

個性を剥奪された無名の人間になりきっているように想えた。

 

 

それはわたしも同じだった。

 

 

だから、お互い声をかけずに、

なぜここにいるのかとたいした興味が

あるわけでもなく、匿名性の中で自分を薄めていた。

 

 

肩書きや名前や会社組織や国さえも

わたしは投げ出したいと感じていた頃だった。

 

 

どこへでもふらりと行って、

遊ぶだけ遊んで疲れたら

またどこかに行ってひとりで帰って行く。

 

 

気まぐれで独立心の強い猫のような生活をしていたその頃、

Kさんもそうだったのかも知れないと思った。

 

 

 

「フランスの南、行きたいな」

 

電話でそう話していたKさんは本当にこっちにやってきた。

 

 

適当に見つけたと行って借りたアパートメントホテルに

Kさんは滞在を決めたようだった。

 

 

フランスに来たばかりなのに浮ついたところがまるでなく、

 

キオスクで買った郊外の地図を眺めるその姿は

パリには飽きてしまったから、ここから離れて

どこかへ行こうと計画しているように見えた。

 

 

 

わたしたちは夜のポワシー通りの安いビストロで食事をした。

 

ふたりで乾燥気味のバゲッドと塩気の強いチーズを頼み、

安ワインで胃に流した。

 

 

仄かなオレンジ色の街灯が彼の眉毛あたりに陰影をつけ、

テーブル越しにじっと窓の外を見ていた黒い瞳を濡らしている。

 

 

彼の無表情さは、東京のクラブで逢った時の、

匿名性の人間にスイッチが切り替わっているようにも見えた。

 

 

瞳は光を失って極端に動きが少なかった。

 

ぼんやり外を眺めているようでいて

実はバゲッドを細かくちぎって

床に落としているだけにも見える。

 

ときどき、わたしの方に眼をあわせて

遅い瞬きをする。

 

 

その様子がいかにも不器用そうで

失踪でもしてしまうのじゃないかと

心配になってしまったわたしは

 

彼の言う、“フランスの南へ行きたい病”

に付き合うことにした。

 

 

ビストロで昔話しをするKさんは明らかに参っているようだった。

 

 

人は、時々、ふとどこか知らない土地に

行ってみたくなるものだ。

彼もそのことを無意識に感じているのだろう。

 

 

けれど、ここじゃないどこか

もっと遠いところなことも、

 

Kさんは気づいていた。

 

 

 

わたしは、パリにはない、

暖かい光と澄んだ空気が必要だと想った。

 

 

 

せっかくだからレンターカーを借りてどこかに行こうと、

わたしは旅好きなフランス人の友人レオナルドに相談した。

 

 

彼は16区のジャスマン通りにあるホテルの受付で

深夜働きながら映画のシナリオを書いている。

 

 

パリに来た当初、

フランス語が喋れないわたしを気遣って

個人レッスンまでしてくれた

本当に気の合う男友達だった。

 

 

今でも、なんでも親身になって相談にのってくれる。

 

 

「自然の美しい静かなところがいいんだけど」

 

とわたしが言うと、

 

得意そうな顔をして

 

「ルールマランはどうかな?」

彼は迷わず言った。

 

 

「プロヴァンスの小さな村、きっと気にいるよ」

 

 

 

ちょうどその頃、わたしは失敗の連続で打ちのめされていた。

 

写真の仕事は見つからないし、

やっと探して働き始めたスタジオの仕事は

ほとんど雑用のようなもので

すぐに辞めてしまっていた。

 

 

わたしがパリに憧れを抱いていたイメージは

音を立てて崩れてゆき

毎日悶々と過ごしていたのだった。

 

 

あれほど大好きだった写真も撮れなくなり、

 

1年付き合ったパリの恋人にも裏切られたばかりだった。

 

 

 

Kさんとは今まで仕事のことばかりで

プライベートの話はしたことがない。

 

 

年上の女性と婚約したと噂に聞いていたけれど

あれは本当だったのだろうか。

 

 

お互い、すれ違っても声をかけなかったくらいだから

なにも知らないし、知ってほしいとも言わなかった。

 

 

そして、わたしも彼も、

そんな低温度で希薄な距離がちょうどよかった。

 

 

 

そんな匿名性を持ったままのKさんと

二人きりで行くルールマランの旅は

一体どうなるのだろう考えるのだが、

 

彼の無関心が手伝って、

何度、計画を練ってみても

感情がぼんやりと麻痺して想像がつかなかった。

 

どこへ行ってなにをするのか、

まったく予想をつけることができずにいた。

 

 

面倒くさくなってきた。

 

パリに来て1年、これまでにもフランス好きの友達が

男女構わず次々とやってきては一緒に旅をしてきた。

Kさんもそうした日本からのゲストと思えばいい。

 

 

パリは初夏の陽気だというのに

わたしは、彼と同じくらい、気持ちが塞いでいて

あらゆる時間の流れに対して無感動になっていた。

 

 

 

 

プロヴァンス、というやけに軽快なイメージだけが

僅かに体温を上げた。

 

 

早朝の北駅で待ち合わせをし南下したあと、

小さな荷物を持って、ルールマランの村がある、

エクス・アン・プロヴァンスへバスで向かう。

 

 

わたしとKさんは知り合いじゃないみたいに別々の席に座り、

揺れるバスの中、それぞれ別の窓の外を見ていた。

 

 

まるでそれが目的みたいに、

流れる景色に前のめりになる姿は

なつかしい子供の頃の遠足の日を想わせた。

 

 

 

いくつもの小さな集落を通った。

 

白い城壁に囲まれた山間の村は、

迷路のような旧市街を抜けると

澄み切った広い空にオリーブ畑が一面に広がる。

 

 

地図に載っていない古城は外国籍の個人宅が多いのだと

たっぷり脂肪のついた運転手が教えてくれた。

 

 

渓谷を抜けると緑の小川が見える。

 

 

 

羊のいる牧場、一面艶のあるグリーンの葡萄畑、

馬小屋、金色の小麦畑、

 

木立の道、石垣の家、農村…

 

 

高速道路ではなく

一般道を走るバスに乗り換えて正解だった。

 

 

 

新しい光景が目の前に開けてゆくたびに、

パリに残してきた灰色の現実は薄れ、

あっさり消えていった。

 

 

 

 

 

 

 

 

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