まなざしと存在
写真論, 抽象風景, parisphoto

まなざしと存在

 

 

 

 

 

わたしたちが日常的に見ているヴィジュアルのほとんどは

じぶん以外の誰かによって撮影されたもので構成されている。

 

これは、日々他人のまなざしを追認しているといってもいいだろう。

 

「無数の誰か」が創ったヴィジュアルや写真

 

それはある時には写真家によって撮影された広告だったり

もしくは、あなたの親しい友人がくれた

ごくプライベートな写真かもしれない。

 

いずれにしても何らかのヴィジュアルを目にするとき

その背後にはほぼ例外なく

こうした「誰かのまなざし」が存在している。

 

 

 

 

 

 

一方でそのヴィジュアルが

「誰によって創られたのか?」

ということに対する問いはどんどん希薄になっている。

 

それはなぜか。

 

 

理由はデジタル写真の絶対量の増加と

データ検索可能性の向上がそうさせてきたのだろう。

 

たとえば、興味のある固有名詞を入れ画像検索をする。

 

すると画面上には自動的なアルゴリズムによって選び出された

大量のヴィジュアルが瞬時に現れる。

 

このときのわたしたちの本質は、

そこに「目的にかなった画像が見つかるかどうか」

というその一点のみにかかっている。

 

こうした日常の中で

ヴィジュアルに接していることが当たり前になった現代において

撮影者に対する関心はおそらく、

もうほとんどないのではないだろうか。

 

 

恐ろしいことだけれど、これは真実であることを認める時代がきている。

 

もちろんいつの時代においても

写真を見るときの欲望は

「そこに何が映っているのか?」

という欲望に向けられてきた。

 

いま、環境はそのような深層心理の無防備な乾きを

さらにエスカレートしていっているように感じる。

 

わたしではない誰か、他人、未知なるものと言えば

ロマンティックかもしれない。

 

けれど、もしそれらを

インターネット上で見つけたとしても

「誰か」が視た「未知なるもの」(であった、もの)

だとすれば

いつまでも未体験なものなど見つからない。

 

 

むしろ、視たことに気付いていない可能性がある。

 

つまり膨大な画像データに収められているのは

初めて視るものでははなく、

もしかしたら、どこかでそれを

視たことがあるかも知れないのだ。

 

 

通りすがりに立ち寄った古い喫茶店に飾られた

一枚の風景写真だったかも知れないし、

もしかしたら倉庫に眠っているレコードジャケットだったかもしれない。

 

これは、ある写真がひとつの主体とリンクされるということは

それが撮影者という人間の記憶とイコールではない、のを意味している。

 

 

体感することになしに得られる未知はない。

 

自分の眼で、身体で感じ、

全身全霊で受け取ること。

 

 

誰かに観せるのが目的ではなく

検索されるために記録するのでもなく

 

本当に自分が視たい一瞬を欲することしか

暴力的なまでの「無数の誰かのまなざし」から

逃れることはできないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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