《文体とは、文学の慣習の私的な部分であり、

作家の神話的な内奥から伸びあがって、

作家の責任のおよばないところへと広がってゆくものである。

作家は言語と文体のどちらも選びとりはしない。

言語と文体のあいだには、

もうひとつの形式的実体=エクリチュールが存在する余地がある。

ー「エクリチュールとは何か」̶     ロラン・バルト》

 

 

フランスの哲学者ロラン・バルトは 言葉には 3 の層がある、と言いました。

その3つとは、 「ラング」と「スティル」

そして「エクリチュール」です。

 

選択した「エクリチュール」によって言葉遣いが決まり

「エクリチュール」によって生き方や 思考がコントロールされている、

という鋭い指摘を行ったのです。

今日は、この概念をご説明します。

 

「ラング」(langue)とは、「言語」「母語」のことです。

わたしたちは生まれたときから両親が使う言葉と

自分が生まれた国の言葉を使用することが運命付けられています。

わたしたちが親や国を選べないのと同じように 言語を選ぶ自由がありません。

そして、その言語を母国語として身につけていくことが

その国で生活していくうえで必要な条件となります。

次に「スティル」(style)。

言葉を発したり、書いたりするときの

個人的な好みや嗜好のことをさします。

例えば、文の長さやリズム、音韻、 文字の画像的印象、

改行、頁の余白、漢字の使い方・・・

人はそれぞれ、自分の好みのイントネーションや言葉使い、

総体的な流れ、口調を持ち合わせています。

 

例えば、女優の桃井かおりさんは

ゆっくりとしたスピードの話し方で話しますが、

ご本人によると、「意図的」にではなく 演技でもなく、

話していると自然にゆっくりになるのだそうです。

ゆっくり話すことが桃井さん個人の好み、

彼女の体内リズムなので おっとりした話し方になるのです。

ですから、「スティル」は個人の好みなので

そう簡単には変えられない DNA と定義すると、

「スティル」それ自体にも自由はないとします。

 

最後の「エクリチュール」とは、

あえてこの意味にふさわしい日本語を当てはめるなら

「社会的な言語」であるでしょう。

「エクリチュール」は 職業や

ライフスタイルを選択したときに同時についてきます。

 

「デザイナーのエクリチュール」 「画家のエクリチュール」

「教師のエクリチュール」「建築家のエクリチュール」

というバリエーションと特徴のことです。

「エクリチュール」の最大の特徴は、

「ラング」や「スティル」とは異なり

「選択する自由がある」ということ。

 

例えば、地元の高校に通っている高校生は

「高校生のエクリチュール」を選択し、

それに適した言葉遣いをしながら担任の先生に話したり

友達に向けておしゃべりしたり、 作文を発表したりします。

その高校生が何らかの部活に入り、

マネージャーを務めるとしましょう。

部活に参加したとき、

「マネージャーとしてふさわしい言葉遣い」

をしなければならなくなります。

その言葉遣いで同僚を激励したり部活全体を引っ張ったりします。

それが「マネージャーのエクリチュール」です。

その方が全体をまとまり、自身もみんなも良い結果が得られると

無意識にわかっているからでしょう。

 

さて、この高校生が 「美少女コンテスト」の 最終オーディションの

ステージに立ったらどうでしょうか。

とりあえず、 「美少女・最終オーディションにふさわしい言葉遣い」

をしなければなりません。

「美少女のエクリチュール」 を選択しなければならないので

優勝して社会的影響を与えるアイドルになったら、

国民のアイドルとしてふさわしい言葉遣いをしながら

一般のファンの人に接したり、

ステージで映える衣装を着て笑顔でいなくてはなりません。

 

 

繰り返しますが 「エクリチュール」が

他の「ラング」や「スティル」と異なる点は、

「エクリチュール」には選択する自由があるということです。

ただし、その「エクリチュール」を一度でも選択すると、

それを解除するまでわたしたちに自由はありません。

 

例えば、「画家のエクリチュール」を採用したら、

画家でいる間は 画家としてふさわしい言葉遣いをしなければなりません。

「政治家のエクリチュール」を採用したら、

政治家でいる間は政治家として

ふさわしい言葉遣いをしなければなりません。

さらに「エクリチュール」の特徴は、 それを選択したら、

立ち振る舞いや身なりまで 変化してしまうという点も興味深いところです。

 

このように、バルトによると 言葉遣いによって、

その人の生き方は密かにコントロールされていると言います。

教師は「教師のエクリチュール」を選択してしまった以上、

教師としての言葉遣いだけではなく、教師の身なり、

教師としての立ち振る舞いをしなければなりません。

そうしないと、「しっくりこない」からです。

 

流行のメイクをし、胸のはだけた派手なワンピースを着て

「あのね・・・」 と色っぽく壇上で論ずる教師はいません。

黒い髪に銀縁のメガネをかけて、 地味なスーツを着て

おとなしそうに歩かないと教師として見てもらえない。

しかし、付き合って2週間の恋人の前では

その教師は「教師のエクリチュール」を解除し、

さっきまで「先生」と言っていたのを、

「わたし」に改めないと、 大切な恋人としてデートが成立しない。

女性として、彼の恋人としての 言葉と行動を強制されてしまうからです。

 

そして、それを選択しているのは、本人であるのです。

つまり 世界とはそういうものである、 というのが「エクリチュール」です。

 

 

「エクリチュール」という概念が提示された背景には

ロラン・バルトが生きた 当時のフランスの情勢に関係があります。

当時のフランスは階層社会になっていて

人々はそれぞれの階層にふさわしいエクリチュールを選択し

生きているという状況にあるということを ロラン・バルトは指摘したのでした。

 

フランス語のように国家的基準がある言語の内部では、

話し方は集団ごとに異なり 結局、人はみずからの言語の囚われ人で

自分の階級の外に出ると、 最初のひとことがその人の特徴をしめし

完璧に位置づけて、 経歴全体とともにその人をあからさまにしてしまう。

というくだりにわたしは納得しています。

 

《人はその言語によって掲示され、明らかにされ、

打算や寛容による虚偽から漏れ出る形式の真実によって 正体を暴露される。

だから、言語の多様性は「必然」のように機能し、

それゆえに悲劇のもとになるのである。》

(引用:ロラン・バルト、「零度のエクリチュール」新版、 石川美子訳、みすず書房)

 

*****

 

こういった思想は、今まで あまり意識することがなかったかもしれません。

けれど、あなたが 自分の表現したいことを明確にし、

それを掲げ、世界を語り

守るべき人を守り、救い、 リードし続ける人であるならば

「わたしのエクリチュール」として発信することになるでしょう。

 

ですから、あなたはそれを適宜選択しながら生きてゆく

ということなのです。

 

ロラン・バルト曰く 「エクリチュールと生き方はセットになっている」

のであり、

言い換えると「言葉遣いが人を決める」のです。

 

そう言われればそうかもね、と一瞬思うものの、

わたしたちは普段どれほど自覚しているでしょうか。

生き方に影響してしまうほどの言葉を どれだけ持っているでしょうか。

 

選択した「エクリチュール」によって 言葉遣いが決まり

「エクリチュール」によって生き方や 思考がコントロールされている、

そういう鋭い指摘を行なったのがロラン・バルトです。

 

なお、この思想に基づいて考えてみると

写真を言語化する場合やアーティストとしての

「言葉遣い」「立ち振る舞い」「可視化されたテキスト

または彼らの発信を考えるヒントにもなりそうです。

 

ちなみに、わたしは最近少しづつ

「これまでのエリクチュール」を意識的に変換している途中です。

さて、どうなることやら・・・

自分で選択を広げてゆきたいと思っています。

 

 

あなたの「理想のエクリチュール」はなんですか?

 

 

 

 

参照『零度のエクリチュール』

(みすず書房/ロラン・バルト、石川美子訳)

 

 

 

 

 

 

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