凝視せよ。そして目と、それ以上のものを鍛えるのだ。

凝視せよ。のぞきこめ。聞け。盗み聞きしろ。

何かを知りながら死ね。

どうせここには長くいないのだから。

— ウォーカー・エヴァンス

 

 

itali909

 

 

 

先日個人レッスンを行った時に

「どうしたら写真表現が向上するか?」と質問を戴いた。

大したことは言えないのだけれど

この機会に記しておきたいと思う。

 

極論を言ってしまうと、タイトル通り

自分の感度を上げてゆくことしかない、と言うこと。

 

ずいぶん昔、山奥で暮らすベテランの写真作家に

写真上達の秘訣を聞くと「それは静物写真を撮ることだ」

という答えが返ってきた。

当時、わたしは知人のスタジオで毎日写真に触れていたものの、

実際の作業はポートレイトに関するアシストと雑務と事務作業しかなかった。

だから、先人にそう言われても

 

「ふーん。静物なんてじっくり撮るようなものだろうか。

そういうのはもっと年配になってからじゃないの?」

 

と、まったく敬意を払うことなく、

さらにいつもの高慢な態度でそのアドバイスを聞かなかった。

けれど、彼の言った言葉はわたしの頭から長い間離れずにいた。

 

「静物写真を撮るということは太陽の光を観察すること。

硬い光、柔い光、角度、色温度、

そういった秒単位で変化する様々な光を見極めること。

写真は光と影。それを学ぶなら、静物写真を撮るのが一番。

鍛えるのは、写真技術ではなくて美学だ」

 

この言葉はいつまでも頭の中に残った。

 

今なら、彼の言葉に強く頷ける。

わたしはその頃、写真家を目指してたわけではないけれど

アシスト時代のスタジオ制作や媒体用のロケをそつなくこなす、

という縛りから解放されたあと

 

自然の光から学ぶ機会が増えたのは

この時の言葉が潜在的に働いているのだろうと想う。

 

気がつけば、わたしは抽象表現という分野にまで興味がおよび、

世界中飛び回ってしまったほどだ。

また、カメラが進化したこともひとつの理由だ。

最近はスピードライトやストロボなどの人工的な光を使わずに

できるだけその場の自然の明かりを観て写真を撮るよう心がけている。

 

それをふまえて、静物写真は大前提の基礎。

写真展や写真集を眺めるとわかると思うが、

憧れるようないい写真を撮る人は、

この分野でもやはり、ふうむ、と唸らせる写真を撮る人が多い。

 

前置きが長くなったが

写真表現の上達を求める意識の高い方にお勧めしたいのが

時間を作って静物写真を練習することだ。

(もちろん、風景でも良いが毎日可能かどうかは

環境によるものが多いので、光を観察して感受性を上げる、

という意味で静物に時間をかけて欲しい。)

 

「時間がある時に」と言って欲しいところだろうけれど

実はそんなヤワな気持ちではレベルアップにはならない。

単に記念写真的にテーブルで撮影するくらいなら別だけれど。

 

わたしが話しているのは、前途したような

ベテランクラスの写真家の熟達方法だ。

以前、エドワード・ウェストンの話題でもあるように、

被写体を限定し、緻密にセッティングした後でも

その上でああでもない、こうでもないと格闘していると

光の見極めができるようになる。

練習というのは年齢と共に

どんどんとしなくなるものだとわたしも実感している。

けれど、この時間を持つように心がけていないと

表現者とは言えないのではないかとさえ感じるほど、大切なトレーニングだ。

 

制作クオリティーの高さとスピードを重視するのであれば、

飛躍的に上がるのは間違いない。

 

003

 

「鍛えるのは写真技術ではなくて美学だ」

と言った山奥暮らしの年配の写真家は今でも

この訓練をしているとおっしゃっていた。

彼は20年前から文化的情報を自ら拒絶している仙人のような人だ。

 

写真家というよりは現代美術表現を中心に活躍している。

彼のやり方は非常にシンプルだ。

窓ガラスのそばに透明なグラスを置きそれを毎朝、欠かさず撮影する。

 

フィルムなので露出を全て書きだし、その日の天候と気温、

その日の予定や食べたもの、ご自身の体調、

風の向き、森の音、雲の形までも記録している。

 

まるでシャッターを切ったときの全ての状況を

神の目で俯瞰しているみたいに。

 

デジタルカメラですればかなり手間が省けることだが、

彼は仙人なので、時間が完全に止まっていて

現在でも大判フィルムか中判フィルムカメラしか使用しない。

 

手焼き印刷した森の写真家の作品を目の前にすると

恐れ多くて合掌してしまう神々しさを感じる。

 

その大先生にわたしは、

「森の環境で表現活動をしていると世界から断絶された感じがして

感度が落ちないですか?」

という大変失礼な質問をしたことがある。

 

例えば、写真表現なら、プリント技術などは

年々素晴らしい向上をしているし

ほんの少し前なら考えられなかった手法で

クオリティーの高い作品が出来上がる。

そして、技術向上の結晶のような新人達が世界中で生まれているのが

現代美術の第一線だ。

 

この時、仙人からは

「自分の感性を素直に信じることができるからこの方がいいのだ」

という答えが返ってきた。

巷に溢れる様々な情報に触れない分、

物質や技術を超越してしまっている彼らしい答えだった。

 

あれから何年か経つ今でも、彼の写真表現に対する意欲は

以前とまったく変わらない状況で美術館や写真展なども行かず、

多くの優れた写真を生で見ることはほとんどない。

年齢的にも厳しくなったのか

森からあまり出ることもなくなり旅もしなくなった。

 

以前、わたしは仙人のような暮らしに憧れ、

窓ガラスにグラスを置き、日々の訓練を繰り返していた。

 

誰かと比べることもなく、見せる必要性もない大量の写真は、

否応なしに自分の内面をじっくりと見つめ

深い境地まで考えるようになる。

 

それ以来、わたしは感度という言葉の意味をはき違えていることに気がついた。

感覚的な体験をだれかと共有することが

世の中にどれほど溢れているのかをしっかり意識するようになったのだ。

 

絶望的なほど比べることが不可避な世界の中で、

環境も考え方も違う我々が、同じ時代に存在し

さまざまな美学が生まれる。

自分自身の感度を響かせられないなら、

どうして他へ伝えることができるだろう。

 

美学を持ち、磨き続ける

その普遍性はどんな技術上達よりも尊いのではないだろうか。

 

(2015年12月の記事を再投稿しています。)

 

 

Miles Davis Quintet – ‘Round Midnight

 

 

 

 

 

“イノチみじかし感度を上げよ” への4件のフィードバック

  1. こちらこそです。
    また、心に残るエッセイお願いします。
    猫ちゃん可愛いですね(^_-)-☆

  2. すっかり、、、、わたしもその一人です。
    自戒もこめて再投稿してみました。
    同時に、古臭いスキルの話や懐古主義なアーティストとの共感が薄れているのは確かです。

    それでも、本当に琴線に触れる体験と、言葉と、そこから感じたエネルギー、
    そのエネルギーを何らかに昇華させる時間は残るものなのでしょうね。

    いつもご感想ありがとうございます。

  3. いいエッセイです。
    以前拝読して、物撮りを励行しなくてはと合点しました。
    しかし、あれから数年。すっかり忘れてしまってました。
    「美学を鍛えろ」。その通りですね。
    ありがとうございました。

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