アンチ・スランプ
日々の泡, 抽象風景

アンチ・スランプ

 

 

 

 

 

 

 

写真が撮れなくなったりすることある?

 

 

突如、ライバルだと勝手に思っていた女性フォトグラファーMから

神妙な顔つきでこう聞かれて戸惑った。

 

 

どうやら彼女はわたしに、

スランプになったことがあるかどうかと

聞きたがっているみたいだった。

 

 

わたしから見れば、まったく同じ質問を彼女に投げかけたくなるほど

いつもエネルギッシュなひとに映るのに

他者から見るとわたしは、想像以上にパワフルに見えるらしい。

 

 

 

そうして不器用なわたしは、質問されるたびに

やっと立ち止まって考えてみる。

 

 

ん?・・・・スランプって?

 

 

質問されなければ考えたことはないし

つまるところ、本当の意味でスランプになったことなんて

ないんじゃないだろうかと思う。

 

 

きっと、そうだ。

 

 

これはわたしが凡人だからだ。

 

間違いない。

 

 

天才的なひとは、いつだって

ギリギリの破壊と創造のハザマで生きていてこそ

自分の才能を味わっているのだから。

 

 

もとから才能など感じていないわたしなど平和なものだ。

 

たとえば、写真活動でいえば

いつも好奇心や集中力がずっと続くわけがないので、

しばらく撮らない時期もあるし、ネタにつきる時もある。

 

 

けれど、スランプ状態になって撮れなくなったり

精神的に落ち込むことはない。

 

 

これは、新しいカメラやレンズを買って知らない場所に出かければ、

撮りたくなってしょうがない衝動が 蘇ってくるのを知っているから

気分的に楽でいられるのだ。

 

 

だから、もしスランプのスの字が肌で感じるようになったら

すぐにふらりと出かけてしまう。

 

わたしにとって旅に出るという行為は、

写真を撮ることと常に一致しているのだろうと思う。

 

だから、もし、カメラを持って行ってはいけないと言われたら、

旅になんて行かない。

 

 

昔からわたしは、写真のために旅に出るときに

約束ごとをひとつだけ作るようにしている。

 

それは、テーマなどと大袈裟なものではなく

ひとつの縛りのようなものだ。

 

 

15年ほど前、はじめて写真を撮るための旅に出たのは

東南アジアの小さな島だった。

 

その時はガイドブックに数行しか情報の載っていないような

名もなき島を目的地に決め、

そこへはローカルな乗り物だけで行くことにした。

 

 

夜行列車やバス、フェリー、ヒッチハイク、

ときどき水牛車にも揺られて数日かけて移動する。

 

 

そう縛りをつけた旅は、目的地が大事というより

移動することに意味があった。

 

 

 

プロセスが写真になる。

ハプニングも多発しただけれどすべてに価値があった。

 

思い出すと、とめどもなく映像が溢れてくるほどの濃厚な日々だ。

 

道に迷えば現地の人が助けてくれ

飲食はすべて島の住民に恵んでいただいたり

家に上がり込んで寝泊まりさせてもらったり

 

なぜか、その家の屋根の修理を手伝ったり

お墓参りのような儀式に参加したり

わたしに一目惚れをして迫ってきた酋長と一緒に漁をしたり

 

誘いを断って村一番の色男と市場に出たり、

その現場を島一番のウワサ話が好きなオンナに広められ

無理やり婚約させられそうになったり、

 

 

予想外のことばかり起きるのが楽しくて仕方がなかった。

 

 

 

そうやって何ヶ月か続けた結果、

帰国して島の旅の写真展をした。

 

旅スナップばかりだったので 額装をわざとせず、

プリントを壁にピンでラフにとめただけの

当時は斬新な展示法だった。

 

 

近頃、写真とステートメントの関係性を考え過ぎて

写真が撮れなくなってしまったり

撮ることが楽しくないという話をよく耳にする。

 

 

本来なら作品制作や プレゼンテーションをわかりやすくするためのものが、

かえって足かせになってしまっているのかも知れなくて

実に勿体ないことだと想う。

 

 

 

いくら対象に真摯に向き合うといっても、

撮らないことには話が始まらないのに。

 

 

実はわたしも以前はこんな精神的なところで躓いていたので

そんな心境の人の気持ちがよくわかるのだ。

 

 

そこで、わたしがやった方法がある。

 

写真でなにがしたいのか

何を見せるのかを撮りながら決めて行く、

という感動優先スタイルだ。

 

 

 

旅はわたしたちにいろんなことを教えてくれる。

 

だから、そこで得たインスピレーションを純粋にまとめてゆくと

作品表現の軸になるきっかけがに出逢えることが多いのだ。

 

 

 

自分がやろうとしているテーマから

わざと離れて物事を捉える旅もいい。

 

 

 

 

 

 

 

そういえば、少し前、日本で神社ブームが起こったことがあった。

 

 

わたしも仕事で伊勢や出雲によく行き

まったく信ぴょう性のないカミゴトが流行っているのを

冷めた気持ちで撮影したことを覚えている。

 

 

最初はピンとこなかったカミサマ的巡りな旅も、

ひなびた温泉宿で静かな夜空を見上げたり

 

朝靄の中の参道をひたすら歩いたりしてゆくうちに

我々日本人がどのように神様と関わり、

崇めてきたのかを考えるいいきっかけになった。

 

 

 

それまでわたしは神々しいものには興味があっても

自ら調べて考えをまとめるようなことは皆無だったのだ。

 

 

 

古事記を読み、歴史の講座へ聞きに行き、禅を学び、

それ以来、お能の観劇も、近所の神社を訪れる際も

見る尺度がずいぶん深くなった気がする。

 

 

 

そうやって神様のことを知ると、

古来から日本人がどのように自然と接してきたのか

という糸口が見えてきて とても面白かった。

 

 

それらの時間は、

自分への思考の課題となって 熟成されているのかもしれない。

 

 

 

いつどんな表現になるのかは未知数ではあるけれど

連なった経験や能動的に動いた時間は

次回の創作をまとめる時の起爆剤となったり、

より濃密な内容へと昇華してゆく。

 

 

それに、遠くに行くばかりが旅ではない。

 

 

スランプでさえなかったことにしてくれる新しいカメラで散歩すれば、

わたしにとっては、そこは見知らぬ世界に変わるのだ。

 

 

ファインダーを覗くその新しい空気、感覚、違和感でさえ

すべてが新しく無垢なものに感じられる。

 

 

 

すごく単純で、笑ってしまうけれど本当のことだ。

 

 

いま、何年かぶりにカメラが欲しくなっている。

 

 

中判カメラはハッセルとGFを使っていたけれど

メンテナンスの大変さに ちょっとだけ浮気心が出てきたのかもしれない。

 

 

 

いつだって新しい相棒(カメラ)というのは、

愛すべき神聖なもので、どこへ行っても何を見ても感動する。

 

 

 

そんな愛しの相棒とふたりで初めての場所へ旅へ出たならば

何もかもが輝いて、天国にいるようなうっとりした境地だろうと想う。

 

 

そうは言っても、いますぐ遠出の旅に出られないタイミングのわたしは、

スタジオや近場のロケで温めてきたテーマを黙々と撮ることにした。

 

 

素晴らしいモデルもいてくださるし

出来る限りいまの思想と感覚を残しておきたい。

 

 

こんな純粋な撮影スタイルは

昔に戻ったみたいで本当に楽しいものだ。

 

 

スランプが気になる友人Mが言うところの

「写真が撮れなくなる」という心境は

わたしには、やはり無縁なのだろう。

 

 

そろそろ滝や湖の輝きを見たい。

 

白い芍薬を光にかざすのが好き。

 

避暑地の夏の森の匂いも懐かしい。

 

かき氷を食べながら、川辺で脚を冷やして見上げる初夏の緑。

 

新しい相棒を手にいれたら

 

さて、どこへ行こう。

 

あなたのスランプ脱出法はなんだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

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