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Nikon D800 +ZEISS Milvus 1.4/50

 

 

「伝えたいひとに向けているからこそ

日常的な場面を撮っているんですね」

と初めて逢った方にいわれ、戸惑ってしまった。

 

正直にいうと

いちどもそんなことを意識したことはない。

 

伝えたいことや伝えたいひとのことなど考えていたら

面倒でたまらない。

 

そんなことでは写真を撮り続けられないだろう。

 

そのとき、わたしは

なんと答えていいものかわからずに

「翻訳しているだけ」といってその方の言葉を流した。

 

翻訳=トランスポーテーション。

 

 

そもそもわたしにとって写真表現とは、

他人の視覚的記憶を刺激するための

変換ツールでしかない。

 

この想いは、幼い頃からずっと同じだ。

 

だから、ファインダーを覗くいているのは

わたし自身ではあるけれど、

シャッターを押し

時間を封じ込めた写真そのものは

他者の中に存在しているものだと思っている。

 

 

たぶん、その感覚が日常的な被写体として

無意識に選別されているのだろう。

 

 

それぞれのひとの中で

その事象を見て経験した記憶が

ヴィジュアルに積み重ねられ、

視覚化されている。

 

 

あるひとがあるモノを見ると

それまでのそのモノで知覚してきた感覚が

一気に再生される感じではないだろうか。

 

 

薄暗い古い家屋にひとの手足が写っていたら

見た瞬間、ゾクッとしてしまうことや

 

逆光のタンポポ畑で遊ぶこどもの写真を見たら

なぜだかやんわりした気持ちになることも

そういった記憶の集合が立ち現れるからだと思っている。

 

 

写真表現というものは

そのひとの蓄えられてきた感覚を

絵として視せてゆく

脳内トランスポーテーションをしているのだろう。

 

 

写真はただの視覚でも2次元の色でもなく、

最終的にはひとそれぞれに在る

深い記憶に光を届けるための翻訳機だ。

 

 

写真を撮っているのはわたしであっても、

視るひとと撮るひと、撮られるひとなど

 

複雑に視界が交わっていながらも

その眼は別方向に向かっているとしても

結局、撮った写真は

わたしだけのものではなく

見ているひとや撮られたひとだけのものでもなく、

 

そんな区切りがいっさい存在しない

限りなく開ききって言葉を越えた思考の先にある

ヴィジュアルのコミュニティーケーション

 

そんな感覚がずっとあるのだ。

 

 

実は、この感覚は

大人になってからの意識の話はなく

父から譲り受けたカメラで遊んでいた6歳ごろから

ずっと身体の奥に持ち合わせてきた。

 

 

ファインダーを覗いた世界を

写真という絵に落とし込んでゆく時間に、同化する。

 

 

そのプロセスから現れた

写真という絵で

まわりのひとの意識を可視し

テレポーテーションをする。

 

邪心も打算もまったくなく

もっと生理的に。

 

 

むしろ、写真単体で他者という存在を無視し

目の前の事象や形状だけを追求していくこと、

 

つきつめれば他人は一切伝わらない被写体を

撮り続けることのほうが不自然であると思ってしまい

意識しないとそんな風にわたしにはできない。

 

もちろん、

その無視感覚を突き詰めた作家の作品も

大好きではあるけれど。

 

 

写真に限らず、作品を

作者という存在を知るための

ツールとして見られることが苦手で

特に絵描きや文学者のプロフィールも邪魔だと思っていた。

 

 

ブレッソンは24ミリを使っていたとか

戦場で一緒に死んだ彼女は誰だとか、

 

背景など知らずに作品に触れることができたら

どれほど良かっただろう。

 

 

なぜこれを撮ろうと思ったのか、

というステイトメントとは違うのだから

 

そういう個人の情報を一切抜きにして

作品をダイレクトで感じ、視て、読みたい

という気持ちになる。

 

 

もっと言えば、作家のポートレイトなど邪魔なものはない。

 

 

白洲次郎のダンディーな背広姿など知らずに

彼の随筆を純粋に読んでみたかった。

 

 

サラムーンが元ファッションモデルだったことも

ベートーヴェンの厳しい聴覚障がい者の肖像も

 

モーツァルトの天才子供時代の微笑みも

 

まったく関係なく

ピュアに感じてみたかった。

 

 

彼らがどんな背景で生活し

短命であっても長生きしても

自殺しても未遂に終わっても

 

女性でも男性でも

結婚していてもしていなくても愛人でも

 

病気でも健康でも

そんなことはどうだっていい。

 

 

確かに、時代の背景というもの、流行、文化は重要だ。

 

作品の背景を知る、研究するという

深い読解も必要なことだとは思う。

 

 

けれど、それは作品を感じてから知ればいいわけであって

感じるまえに、それらに触れて知ってしまうことで

感じ方に差異がでることはわかりきったことなのに

 

どうしてずっと変わらないのか、

今でも理解できないことのひとつだ。

 

 

わたしの言っていることは

ただのわがままで怠惰な勝手だということは充分しっている。

 

それでも、わたしは

わたし、という存在のままで

その絵を視たかったし

 

音を波動で聴き、言葉をリズムで読みたかった。

 

 

彼らがいつどこで創作し

どんな想いがこめられていたとしても

その世界を感じとるわたしの魂は現代のものだ。

 

 

直感でいたい。

 

 

そしてその本質との時間差で生まれる

ギャップや誤解がドキドキして

さらなる感動を呼び寄せると思っていた。

 

 

だから

せめてわたしの作品はどこまでも

 

わたし、ではなく

わたしと他者と

 

わたしの間に存在してほしいと想うのだ。

 

 

あくまで、他者の意識のなか

あなた、という意識と言葉と

 

視覚の蓄積のなかに在るものを

写真に写しているだけなのだとすれば、

 

目に見えるものすべては

 

あなた

だけでで形成されているのだ。

 

さらに言えば、

 

世界中のひとびとは

新しいなにかに触れるとき

 

情報や作家のプロフィールなどは

すっかり忘れてしまったほうがいい。

 

 

もしかしたらその作家は

わたしと同じで

 

伝えたいことなど

本当は何ひとつなく

その時、気に入ったというだけの

 

悦楽の寄せ集めのなかで

怠惰な意識を弄んでいるだけなのかもしれないのだから。

 

 

だから、作家自身のことや

その背景や過去が

好きか嫌いかなど

本来、作品にはまったく関係がなく、

 

その作品をどう感じるかどうか

ただ、それだけのことなのだから。

 

 

 

 

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model :Mitsuki

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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