「伝えたいひとに向けているからこそ

日常的な場面を撮っているんですね」

 

と初めて逢った方にいわれ、戸惑ってしまった。

正直にいうと、いちどもそんなことを意識したことはない。

 

伝えたいことや伝えたいひとのことなど考えていては

好き勝手に写真を撮り続けられないだろう。

 

そもそもわたしにとって写真表現とは、

他人の視覚的記憶を刺激するための変換ツールでしかない。

この想いは、昔からずっと同じだ。

 

ファインダーを覗いているのは「わたし自身」ではあるけれど、

シャッターを押し、時間を封じ込めた写真そのものは

「他者の中」に存在しているものだと思っている。

 

たぶん、その感覚が日常的な被写体として

無意識に選別されているのだろう。

 

それぞれのひとの中でその事象を見て経験した記憶が

ヴィジュアルに積み重ねられ、視覚化されている。

 

あるひとがあるモノを見ると、それまでの、そのモノで知覚してきたことが

一気に再生される感じではないだろうか。

 

たとえば、薄暗い古い家屋にひとの手足が写っていたら

見た瞬間、ゾクッとしてしまうことや

逆光のタンポポ畑で遊ぶこどもの写真を見たら

なぜだか懐かしい気持ちになることも

そういった記憶の集合が立ち現れるからだ。

 

写真表現というものは

そのひとの蓄えられてきた感覚を、絵として視せてゆく

脳内トランスポーテーション(翻訳)をしているのだろう。

 

写真はただの視覚でも2次元の色でもなく、

最終的にはひとそれぞれに在る深い記憶に

光を届けるための翻訳機だ。

 

写真を撮っているのはわたしであっても、

視るひとと撮るひと、撮られるひとなど

複雑に視界が交わっていて

さらに、その眼はそれぞれの別方向に向かっている。

 

結局、撮った写真はわたしだけのものではなく

見ているひとや撮られたひとだけのものでもなく、

そんな区切りがいっさい存在しない、限りなく開ききった

言葉を越えたヴィジュアルのコミュニティーケーション、

そんな感覚がずっとある。

 

この感覚は大人になってからの意識の話はなく

父から譲り受けたカメラで遊んでいた4歳ごろから

身体の奥に持ち合わせてきた。

 

ファインダーを覗いた世界を

わたしの脳内スクリーンに落とし込む。

そのプロセスから現れた写真という絵で

まわりのひとの意識を可視し、テレポーテーションをする。

 

邪心も打算もまったくなく

もっと生理的に。

むしろ、写真単体で

他者という存在を無視し

目の前の事象や形状だけを追求していくこと、

つきつめれば

他人は一切伝わらない被写体を撮り続けることのほうが

不自然であると思うし、

意識しないとそんな風にわたしにはできない。

 

もちろん、天才的なセンスでその無視感覚を突き詰めた人の作品も

敬愛する。

けれどそれは、凡人のわたしを翻弄してくれる快感

であってくれればいい。

 

そもそも、写真に限らず、作品を、作者という存在を知るための

ツールとして見られることが苦手で

絵描きや写真家、文学者、音楽家のプロフィールは邪魔だと思っていた。

 

ブレッソンは24ミリを使っていたとか

戦場で一緒に死んだ女は誰だとか

キャパはどこから撮影したのかとか

背景など知らずに作品に触れることができたらどれほど良かっただろう。

 

なぜこれを撮ろうと思ったのか、

というステイトメントとは違うのだから

そういう個人の情報を一切抜きにして作品をダイレクトで感じ、

視て、読みたいという気持ちになる。

 

もっと言えば、作家のポートレイトなど邪魔なものはない。

白洲次郎のダンディーな背広姿など知らずに

彼のたぐいまれなセンスのある随筆を純粋に読んでみたかった。

 

サラムーンのファッションモデル時代も、

ベートーヴェンの厳しい聴覚障がい者の肖像も、

モーツァルトの天才子供時代の微笑みも、

まったく関係なくピュアに作品を感じてみたかった。

 

彼らがどんな背景で生活し

短命であっても長生きしても

自殺しても未遂に終わっても

女性でも男性でも

結婚していてもしていなくても誰かの愛人でも

末期エイズでも健康でも

そんなことは関係ないではないか。

 

確かに、その国の時代背景や文化は重要だ。

作品を知る、研究するという深い読解も必要なことだとは思う。

 

けれど、それは作品を感じてから知ればいいわけであり、

受け取る側が感じるまえに、

それら「情報」に触れて知ってしまうことで

感じ方に差異がでることはわかりきったことなのに

どうしてずっと変わらないのか、

今でも理解できないことのひとつだ。

 

わたしの言っていることは

ただのわがままな戯言だということは十分わかっている。

 

それでも、わたしは

まっさらなわたしの存在のままで

その絵を視たかったし

音楽を全身で聴き、言葉をリズムで読みたかった。

 

彼らがいつどこで創作し

どんな想いがこめられていたとしても

その世界を感じとるわたしの魂は現代のものだ。

いつだって直感でいたい。

 

ひとの意識が時間を超えるには、うってつけの方法なのだから。

 

そして作家の本質と、その時間差で生まれるギャップに

さらなる感動を呼び寄せると思っている。

 

だから

せめてわたしの作品はどこまでも、

わたし、ではなく

わたしと他者とわたしの間に存在してほしいと想うのだ。

 

あくまで、他者の意識のなかで

あなた、という意識と言葉と

視覚の蓄積のなかに在るものを

写真に写しているだけなのだとすれば

 

目に見えるものすべては

あなた

だけでで形成されているのだ。

 

さらに言えば、

世界中のひとびとは新しいなにかに触れるとき

情報や作家のプロフィールなどは

すっかり忘れてしまったほうがいい。

 

もしかしたらその作家は

わたしと同じで

伝えたいことなど本当は何ひとつなく

その時、気に入ったというだけの悦楽の寄せ集めのなかで

怠惰を弄んでいるだけなのかもしれないのだから。

 

作家自身のことやその背景や過去が好きか嫌いかなど

本来、作品にはまったく関係がない。

その作品をどう感じるかどうか

ただ、それだけのことなのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

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どうぞお楽しみに。

 

“トランスポーテーションと作家性” への3件のコメント

  1. 小生の写真をみていただけているんですね。
    ありがとうございます。
    「理屈抜き」というほどではないのですが、
    今撮らねば、今撮りたいとの思いで、
    人にあいさつし、そして耳を傾け、
    そして、その時を見つけたら、
    もう無心になって撮っています。
    どこまで続けられるでしょうかね。
    maqui さんも頑張ってください。

  2. 島津さま

    土門先生もムッシュ・ピカソも少年のようで素敵ですね。
    今回のコラムは自戒の意味もあるかなと思っています。

    島津さんのスナップもどんどん「理屈抜き」になってきていいですね。

    ただそのに在ることを、そのままというのは究極だと思います。

    いつもありがとうございます。

  3. そうですよね。理屈抜きで写真を感じられたらいいですね。

    かのピカソがうまいこと言っております。
    人間は小鳥の声をきく時は、
    ただききほれるだけで、
    何をさえづっているのかなどと
    ”理解”しようとはしていない。
    それなのに絵を見るときに限って、
    一生懸命根掘り葉掘り何が描いてあるのかと
    ”理解”しようとする。
    絵は小鳥の声をきくように、
    ただ見ればよいのであると。
    写真もまったく同じであります。

    と、土門拳さんが何かの本で書いていました。

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