マダムノルマンディ
随想

マダムノルマンディ

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視界に白いまだら模様が入る。

 

気になって瞬きをする。

手袋をしたままの指さきで冷たいまぶたに触れる。

 

まつげが白く凍っている。

 

 

真冬のノルマンディ地方の港町でロケをしていたわたしは、

なかなか理想的な絵が撮れず

躍起になって何時間も撮影しているうちに

空気の冷えに鈍感になってしまっていた。

 

 

指の動きが重く、カメラのシャッターボタンも押せなくなり

気づいたらもう遅かった。

 

内臓が冷え切ってしまったのか、

うまく身体を動かすことができない。

 

 

感覚が消えているのだ。

 

海岸沿いの暴風に巻かれて散ってゆく粉雪が

岩場に積んでいる機材を白くつつんでゆく。

 

全ての機材を置いてゆく覚悟を決めたわたしは、

三脚だけ一本つかんで脇にはさみ、身体全体を持ち上げた。

 

体重をかけ、杖のように一歩、二歩と進んでみる。

 

鉄製の三脚を握る指先が痛い。

ニット帽の下で耳がちぎれそうだ。

このままでは意識が遠くなってしまう。

早く逃げよう。

宿へ帰ろう。

 

 

わたしはやっとの思いで前に進み

横なぐりの雪が降る海岸から港町にある民宿へ向かった。

 

凍傷ギリギリだった。

 

なんども倒れては三脚に捕まって前に進み

カモメが鳴く声が響く小さな港町をよろよろと歩く。

 

唇から血の気が引いているのがわかる。

 

ガタガタと震える歯の音が耳に響く。

 

雪は降り続ける。

流れているはずの血が冷えて凍え、熱が奪われる。

 

鈍い金属音のような歯の振動を止めることができず、

自分という肉体の入れ物が固まってゆくの感じた。

 

 

ひと気のないフランスの田舎町で

意識が朦朧としてゆくことの怖さが

どこか夢のようで現実感がない。

 

 

寒さで意識を失うのは、こういうことなのか。

 

わたしは、昔観た映画の吹雪の中を歩く兵隊のような気分になった。

 

 

たどり着いた民宿の古びた赤いドアを開けると、

わたしのひどい顔色の見て

宿のマダムが2階の部屋まで付き添ってくれた。

 

 

もう大丈夫よ。と何度も繰り返しながら

わたしを毛布に包みベッドに寝かせると

質素な室内に添え付けのインスタントココアにお湯を注いで

カップを差し出してくれる。

 

 

一刻も早く温まりたい。

 

 

けれど、わたしの凍えた指先は動かず、

カップを持つことさえできなかった。

 

 

フランスの濃いチョコレートの匂いだけが部屋に漂った。

 

マダムはたっぷりと脂肪をつけた大きな身体を器用に動かし

窓の隙間にタオルで枠を囲い急速に部屋を温めたり、

他の部屋のお客を呼び出して

毛布を何枚も持って来させたりしてくれた。

 

他のお客たちはわたしを見てすぐに状況を理解したようだった。

 

旅行好きそうなヨーロッパ人が廊下に集まり

マダムとあれこれ話しながら暖の準備を黙々とはじめている。

 

彼女は、毛羽立った毛布を何枚も使って

わたしをぐるぐる巻きにしながら

ほとんど感覚のない凍えた頬を大きくて厚い両手でぎゅうと包んだ。

 

「私がいるからもう大丈夫。」

 

冷えてガタガタする身体はまだ落ち着かない。

 

赤い扉が目印の4階建ての古い民宿に

いろんな国の言葉が混ざり合っている。

 

北フランスの港が見える小さな宿の誰もが

マダムのひとことで気分良くテキパキと働き

互いに声を掛け合っている気配がわかる。

 

目の前のうっすらとしか見えない輪郭の淡い光景だけを感じながら

わたしは、初めて泊まった宿のマダムと客人の温かさに

不思議なくらい安堵していた。

 

 

 

あのこ日本人だって。

スープを作るよ。

大丈夫さ。

マダム、俺たちまた来るから。

 

 

毛布の隙間から見える情景に震えたまま心を打たれた。

 

 

「メルシーマダム。」

 

そう言いたくても声が出ない。

 

口が動いているのかどうかさえわからないくらい肉体感覚がない。

 

 

マダムは自分のくちびるに人さし指を一本立て、

「シーっ」と言って振り向き、

わたしに「黙ってて」と合図して笑った。

 

 

宿の看板猫のルーシーが部屋の様子をうかがいにやってきた。

 

「あら、心配ないわよ」

黒猫のルーシーをひょいと右肩に乗せ

太っちょマダムが部屋の通路をのしのしと歩いてゆく。

 

古いドアノブの鈍い金属音が聴こえると

今度は、バスルームの蛇口から勢いよくお湯の流れる音がした。

 

バスタブにお湯をはって入浴する習慣がないフランスの田舎町で

どこの誰ともわからないわたしに、なぜ

こんなにも親切にしてくれるのだろうと思ったが

意識が朦朧として考えることができない。

 

 

ただ、ただ、呪文のように

メルシボクーと心で呟いていた。

 

お湯の音を聴きながら

わたしは安心しきって

ミノムシのような格好でベッドに丸まった。

 

 

身体のすみずみが痛む。

 

その痛みを自分と重ねてみる。

 

冷たい石畳を歩いて来た足の指。

このまま硬く丸まってしまいそうな背骨。

それを包む背中の皮膚。

 

身体が動かない分、他の機能が発達するのか

それとも感覚を忘れるほど一体になっているのか。

 

 

とろけるほど暖かな部屋は

ノルマンディの豊かな気配に包まれていた。

 

 

ベッドの横の大きな窓が揺れている。

北フランスの風が音をたてて陸を渡ってゆく。

その風が港に降りる。

町中の人が急ぎ足で家路につく。

 

室内には湯気の立ったカップ。

オレンジ色の部屋の灯り。

 

猫のルーシーの長くてよく動く尻尾。

日向の匂いのする茶色の毛布。

 

 

わたしは一体、こんなところで何をしているのか。

 

わからない。

わからないけれど、

 

今、確かにここにいる。

 

 

 

ガタガタ鳴っていた歯の音が消え

やがて温まった毛布の中でわたしの手の指が動く。

 

「あ、動いた」

 

思わず声がでた。

 

 

氷が溶けてゆくように

わたしの身体がゆっくりとほどけてゆくのが感じられた。

 

指先、右手、左手、手首

ひじ、二の腕、肩、背中、わき腹、お尻

 

太ももの裏、ふくらはぎ、かかと、足に指

 

溶けてゆく。

 

首、喉、胸、肋骨、お腹、太もも

 

太ももを抱える両手

 

重ねた指先

 

手の甲に感じる温度のある息。

 

 

吐く息

 

吸う息

 

 

呼吸

 

 

開いたり閉じたりする両目

潤った目の中

 

気配を感じる皮膚。耳。

 

わたしの呼吸。

 

わたしの意識。

 

わたし、と器と、

わたしの意識が重なってゆく。

 

 

 

毛布から顔を出して見えるのは

マダムの大きな背中とその肩に乗って何かを見守る黒猫ルーシーだ。

 

ずっとそばにいてくれたのだろう。

 

彼女はなにをするでもなく、部屋の真ん中の椅子に腰掛け

白い湯気がたちのぼるバスルームの方へ視線を注いている。

 

 

 

 

ノックが3回して、

宿のキッチンからクリームスープが届く。

 

マダムがスプーンにひとくち口すくい

わたしにふくませてくれる。

 

 

熱い液体が舌を流れ、喉をまっすぐ通って

中心に滑り落ちてゆく。

 

 

生きている。

 

もうひとくち口にふくむ。

 

 

喉がなる。

 

胃がぎゅうと上下に動く。

 

指先の感覚が戻る。

 

動く。

 

生きている。

 

 

「Tout va bien」ー 全て大丈夫。

 

 

マダムが笑う。

 

ルーシーがわたしの膝に乗りミイと鳴く。

 

 

 

バスルームの湯船にお湯がトクトクと貯まってゆく。

 

 

蛇口からお湯が流れてゆく音を聞くことが

こんなにも優しくて心地がいいのかと思う。

 

 

スープを飲み終わる頃、

古いヨーロッパ製のバスタブにはたっぷりのお湯が入っていた。

 

 

マダムがエプロンのポケットから三角に折った紙包みを取り出し

その中身をパラパラと落とすジェスチャーをしている。

 

わたしが不思議そうに見ていると

スープに魔法のスパイスでも忍ばせるような得意そうな笑みになる。

 

そうして見せてくれた包み紙には

半透明の結晶のようなものが入っていた。

 

 

 

「La fleur du sel」— 塩の花よ。

 

半透明の結晶は彼女が育った港町の海岸で採れた塩だった。

 

その粒は、よく見るとバラ色をしていた。

 

 

父親は漁師だった、とマダムが言う。

 

厳しい冬は冷え切った身体を温めるため

この塩を入れてお湯に浸かっていたのだと話してくれた。

 

 

「だから、あなたもすぐに温まって気分がよくなるわ。」

 

 

わたしは、ようやく動き出した指先で塩の結晶に触れてみた。

 

バラ色は懐かしい砂糖菓子を想わせた。

 

 

 

スープと毛布で温まったわたしは、その後、

自力で動けるまで回復した。

 

ベッドから降りて部屋の中を歩くことができるのを

マダムに確認してもらうと

片言のフランス語でマダムにお礼を言い

明日の午後、予定通り帰国便に乗るつもりだと伝えた。

 

 

「Tout va bien 全て大丈夫。」

 

赤みを帯びた艶やかな頬をまあるくしながら

マダムはなんどもそう言ってルーシーと部屋を出ていった。

 

 

 

その夜、ノルマンディーの片隅で

バラ色の塩風呂へたっぷりと身体を沈め

わたしは、わたしを浮かし、揺らした。

 

 

宿は、バスルームの大きな窓から

北フランスの静かな海が見えた。

 

薄紙のように透けそうな三日月が出ていた。

 

港以外なにもない素朴な町の夜は

波の音しか聞こえなかった。

 

 

 

 

3年後、ロケの仕事でこの地方へ行った際

マダムの宿を訪ねてみたことがあった。

 

凍傷からわたしを救ってくれた港の宿の赤い扉はなく、

替わりにクリーム色のホテルチェーンの看板が掲げられていた。

 

フロントで昔この場所にあった民宿とマダムと黒猫のことを聞いたみたが

アメリカ人の従業員たちは誰も知らなかった。

 

 

仕方なく、外へ出て港町を歩いた。

 

あの日、三脚を杖にして歩いた石畳が

海の手前まで細長くつづいている。

 

カモメが頭上を舞い、港であがった漁のおこぼれをもらいに

野良猫たちがのんびりと道を横切ってゆく。

 

 

わたしは、駅へ戻る途中、小さなお土産やさんへ寄り

その地で採れたバラ色の塩をくださいとお店の人に訪ねてみた。

 

 

けれど、どの店でもそんな塩はここにはないよ、と言われ

未だに手に入れることができてない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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