はじめてカメラを手にしたのは父のお古だった。

 

小学生だったわたしは

カメラのファインダーを覗いた時に見える別の世界にすぐに夢中になった。

 

わたしは、見るものすべて無邪気撮り収めた。

友達が少なく絵本ばかり読んで部屋に閉じこもっていた毎日が

一台の古いカメラによってカラフルに変わっていった。

 

公園の花や虫やラムネの瓶の透明な水色や

シュークリームみたいな雲や近所の野良猫を追っかけて、

毎日毎日、カメラのファインダーを覗いているのがなによりも楽しく想えた。

 

36枚のフィルムをすべて撮り終えると

小さな時間をぎゅっと集めて束にしたような満ち足りた気分になった。

 

巻き終わったフィルムは父と一緒に近所の写真屋さんに出した。

何日かするとプリントを受け取りに行く。

近所の写真屋さんで現像された、まだぬめり気が残っているプリントには

いつも印刷液の甘酸っぱい匂いが染み込んでいて

わたしはそれをちょっとだけ大人になったような気がして好きだった。

 

 

「一番よく撮れているのを大きくするから、研究しよう。」

写真屋さんの帰り道、父は嬉しそう言った。

プリントの出来を見るという口実で、長髪のマスターが営む喫茶店へ寄るのが

わたしと父の密かな楽しみでもあった。

 

小さな町の喫茶店は「スミス」という名だった。

店に入ると父は、角の席に座ってクリームソーダとアイスコーヒーを注文した。

 

スミスのマスターは長い髪を後ろでしばり全身黒いレザーの上下、

存在感のあるブーツを履いて

テレビで見たことのあるロックスターのような格好をしていた。

 

厚底のブーツはラバーソウルという名前で当時人気があったものだった。

わたしは何度か「スミス」に来る高校生の女の子たちが

重たそうに履いているのを見たことがあって憧れだったのだ。

 

ラバーソウルは圧倒的にカッコよかった。

マスターはいつ来ても機嫌良さそうに鼻歌を歌いながら

カウンターでグラスを磨いている。

 

夏でも黒いパンツを履いて腰のあたりにチェーンのような飾りをつけて

歩くたびにシャラシャラと金属音がするマスターは

脚も腕もびっくりするほど細かった。

小さな町ではかなり目立つ人だと小学生のわたしでもわかった。

 

マスターはいつも、わたしの写真を真剣に見てくれた。

テーブルに並べた写真を立ったまま観てはニヤニヤとして

「ロックしてんじゃん」と言った。

それが彼の誉め言葉だった。

 

わたしは意味がよくわからなかったけれど、

かっこいいね、ということだと考えるようにしていた。

 

 

 

 

「喫茶スミス」は、近所に住むおばさんたちが来る喫茶店ではなく、

どこか、お客さんを拒んでいるような店だった。

音楽は鳴っていなかった。

正確には、マスターがレコードをかける時だけ店内に音楽が流れる。

 

気ままなマスターの選ぶレコードが回っていない日は

空調と換気扇の音と、コーヒーカップがぶつかる音だけが聞こえた。

 

ある日、父とわたしが写真を取りしてテーブルに並べていると

いつものクリームソーダが泡を立てて運ばれてきた。

わたしはその頃、赤いチェリーが添えられたスミスのクリームソーダを

世の中で最強の飲み物だと思っていた。

 

母からは「舌が変な色になるからダメよ」と言われていたけれど、

夏休みにこっそり父と出かけた日だけ内緒で注文するのだ。

 

 

わたしと父は、それぞれ秘密ごとをスミスで行う。

わたしはここで、“デビルマンのベロ”になってしまうみどり色のクリームソーダの

ソフトクリーム大盛りに至福を覚えてしまった。

父はマルボロという赤い箱のたばこを美味しそうに吸って、目を細めている。

こうして写真を見ると言いながら、ふたりで何時間でもスミスで過ごしていた。

 

出来上がった写真にみどり色のソーダが付着することもあったけれど、

父は何も言わず静かに、わたしとわたしの撮った写真を見ていた。

 

「いい感じに撮れてるね」

 

家では決して吸わないたばこを手に、父がテーブルの上でトントンと箱を叩く。

マルボロを一本取り出して火をつけ、一口吸って黒い灰皿に置く。

白い灰をトントンと2回落とし、

大切そうに指にはさみんではまた一呼吸する。

わたしは、スミスで見る父をすべて許した。

 

 

その頃、わたしは写真を撮ることが好きなのかどうか

本当のところわからなくなっていた。

もうすぐ中学生に上がるという緊張と不安を濁らせようとして

友達と本屋で集まって喋ったり、ラジオで外国の音楽を聞いたり

アイドルグループが出演するテレビ番組をチェックする方が

忙しくなっていたのだった。

 

父に「いい感じ」と言われると、わたしは何だかくすぐったかった。

それは褒められるという感じではなく、

わたしという存在を認められた気持ちがした。

 

「良く撮れてるね」と言われたプリントと、

言われなかったプリントを見比べてそこに写った色や形をじっと見る。

 

毎回そうやって見比べるのだけど、わたしには見れば見るほどわからなかった。

なにが良くて、なにが「そうでない」のか。

 

花柄のワンピースが汚れないように気をつけながらクリームソーダを飲み、

目の前に座る父がそうするように、

わたしも一枚一枚、なんども見ていた。

 

スミスのテーブルに隙間なく並べた写真は

どれだけ見ても大したものなど写っていなかった。

 

夕立後に逆光を浴びて光る庭の椿の葉

開ききって曲がったチューリップ

夕食の支度をする母の白いエプロン

妹が拾ってきた名前の知らない赤い実

屋根の上から見下ろした川のある町の朝

母の好きな白い百合が朝日に触れてできた淡い影

 

 

みどり色のソーダ水は白いソフトクリームと混じり合い

だんだん透明感を失ってゆく。

ストローに着いた甘みがわたしの手に絡まり、

出来上がったばかりのプリントに小さな指紋をペタペタと残していた。

 

テーブルをうめつくすプリントを前にすると

カメラのシャッターを押した時の気持ちとは

まるで違う目で見ていることが不思議で、

自分の撮った写真ではないような気分で眺めていた。

 

「これ、いいね。額に入れて飾らないと。」

 

マスターはそう言って手にした一枚をわたしに向け、

顔を目の周りをくしゃくしゃにしてウィンクする。

 

それは、父が庭に咲くユリの花に水やりをしている姿だった。

父はその一枚を見て恥ずかしそうに笑っている。

 

わたしは咄嗟にマスター言った。

「ユリが風で揺れてブレちゃった」

そう口にしながら、手ブレしてしまった写真のどこがいいのかわからずにいた。

 

庭には草花が溢れ、

夏の終わりの濃厚な影が父と日よけ帽子をシルエットにしていた。

 

真剣な顔で汗を浮かべる父親の姿は

ランニングTシャツと寄れて色落ちした半ズボンに

庭履き用の下駄を履き、日焼けしてごつごつした脚の指に土がついている。

それは農作業のようでもあったけれど、

わたしだけが知っている優しい父のいつもの姿だった。

 

ブレてしまったのはその時、一瞬だけ、撮っていいのかどうか迷ったからだった。

 

厳格な父の、ゆるんだ表情やランニング姿を他の人に見られてしまうという、

なんとなくきまりが悪いような心持ちがした。

 

マスターはその一枚を見ながら、いいね、を繰り返した。

「家族にしか撮れないね」

そして少し赤くなったわたしに、

「ロックしてんじゃん」と父を見ないで言った。

 

******

 

庭の草花を育てるのが父の余暇の一つだった。

書道家という仕事で書斎に篭りきりな父は、

夕方になると気分転換に近所を散歩したあと

庭の水撒きをして季節ごとの草花を栽培していた。

 

ときどき

「ああ、咲いてくれたんですね。素晴らしい。なんて美しいのですか」

そんな風に花に声をかけているのが庭の向こうから聞こえる。

 

「お父さん、また花と喋ってる」

「そうね。でも静かにしてあげてね」

リビングにいるわたしと母は人差し指を唇の前に立てて

「しっー」の合図をとって顔を見合わせて笑った。

夕方の庭は、いつも厳しい父が一番穏やかになる時間だった。

 

 

形のいい指にたばこを挟んで、父はテーブルの上のプリントを2つに分けていた。

それは、“良く撮れてる” と、“そうじゃない” プリントにだった。

 

父は、ダメな写真とか、失敗、という言葉を使わない人だった。

手ブレしてしまった写真や顔が切れてしまっているような

明らかに撮り損なったものだけを分けて、

どうしてそうなってしまったのかを話してくれた。

 

「いいなと思ったらその前と後を考えるんだよ。」

父のアイスコーヒーはストローがささったまま氷が溶けて、

上の方に水の透明な層を作っていた。

 

カウンターから湧き上がっているポットの湯気が、

低い天井にあたってゆっくりと店内に広がり視界に淡いベールをかける。

たばこの煙が一筋の糸のように天井に舞っている。

ふわりとグラデーションがかかった夏休みのテーブルは、

父とわたしとマスターの、秘密の写真研究室のようだった。

 

 

マスターが父の新しいアイスコーヒーを持ってくる。

今日は暑いね、と言ってわたしの分もサービスしてくれた。

 

店中にシャラシャラ、とシルバーのチェーンが揺れる音がして

厚いゴム底のブーツがきゅきゅっと床に鳴った。

 

わたしは初めて飲む細長いグラスに入った苦い液体を見ながら、

少しだけ大人になったような気分がしてストローを刺した。

 

 

*****

 

帰り際、わたしは、ふたりの前で今回のプリントの一番お気に入りを発表した。

じゃじゃーん! と大げさに言い、

プリントの山の中から一枚を選んで父とマスターに見せる。

 

それは、母が和室で花を活けているところだった。

父が育てた庭のユリに花鋏を入れる母の満面の笑み。

 

ふたりとも、一瞬真面目な顔をしてすぐに首を縦に振って頷いてくれた。

父の顔も、スミスのマスターも、目を細めて何度も頷きながら首を動かした。

 

 

 

しばらくして、父は、わたしの撮った写真を大きくプリントし

リビングにある大きなソファの上に額入れして飾った。

額にはめ込まれたガラスに夕方の風にゆれるカーテンがふわりと重なり

写真の中で微笑む母の顔がいっそう穏やかに映った。

 

そんな時、わたしは、ほの暗い喫茶店の隅のテーブルで揺れ上がる

半透明なたばこの煙を、クリームソーダ越しに見たくなるのだった。

 

 

 

スミスのマスターが生きていたら、

今頃70代になるだろうか。

 

あの頃、無条件にわたしの写真をいいと言ってれたスミスのマスターを想うとき、

話し込んで溶けてしまったアイスコーヒーの薄い茶色が浮かび、

シャラシャラと音を立てシルバーのチェーンが揺れ

ロックスターみたいなラバーソウルの足音が聴こえてくるのだ。

 

 

 

 

 

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