「切りとる」、という言葉の表現が好きになれない。

 

それでもしばしば、一般的に伝わりやすくするために

わたし自身、この表現を使うこともある。

 

けれど正直に言うと、写真を撮る行為のことを

世間がこう言えば言うほど多くの人がトラップに嵌ってしまい、

救われていないと思えるのだ。

 

今この瞬間を切りとる、とか

自分らしく切りとるなどが良くある落とし穴だろう。

 

確かに、スマホ画面も、パソコンも、

ファインダーもプリントも四角い。

 

最終系の「写真」が四角なので日本語の

「切りとる」というイメージが浮かびやすく感覚的にフィットする。

 

けれど、ここで言いたいのはただひとつ、

みんな「本当にそう視えているのだろうか?」 ということ。

 

この言葉に引っ張られていいだろうか?

ほんとうは、わたしたち人間の眼は

映るものを決して「切り取って」などいないのではないか。

 

言葉のイメージだけ先行してしまって

逆に「無理やり四角にはめ込んで」しまっていないだろうか。

 

これは、正確に言えば、

「カメラという道具を使って世界を四角く切りとる」

という意味であろうと想うけれど、決して

構図上ファインダーに収めることではない。

 

むしろ、収まりきらないものを写実するのが

わたしたち人間がやるべきことではないだろうか。

 

たとえば、世界を切りとるという言葉のイメージの中に

「目の前の事象をそぎ落とす」

ようなことを言われているのをよく見かける。

 

これを読んでいるあなたも、きっとどこかで

聞いたことがある表現だと思う。

 

《世界のモノゴトの複雑さをそぎ落として視えてくる本当のもの》

というであれば、正解かも知れない。

 

確かに、映る対象を単純化し、シンボライズし

世界をシンプルに捉えることで得られる絵になる絵、

とをいうのだろうと思うし

そこから新しい発見があることも理解できる。

 

ただ、 それは本質的な写実と言えるだろうか。

 

あなたが旅に出たとして

はじめて出逢う風景に感動したとする。

 

目の前に大きな湖がありその向こうに雄大な山脈があり

澄んだ空気を胸いっぱいに呼吸する。

 

思わず頰がほころび、全身がなだらかにリラックスして

ふと足元を見ると、草原には野花が咲き乱れ、

可愛らしいてんとう虫がクローバーの上で這い回っている。

 

蒼い草原のその奥には小さな山小屋があり、

まわりに羊が放牧されている。

 

陽に照らされて羊のシルエットが白く、丸く輝く。

 

見上げると真っ青な空に白い雲が浮かんでいる

 

 

・・・としよう。

 

そんな時、あなたは、ファインダーを覗いて

ひとつひとつの事柄をゆっくり丁寧に切りとってゆく

という撮り方もあるだろうと思う。

 

現実的に望遠レンズで切りとることは、つまるところ

この行為をさすことが多い。

 

けれど、ここで大切なことがある。

 

 

あなたは、本当は、

あなたが出逢ったその場所で

「わあ、いいなあ」

「気持ちがいいなあ」

「こういうの好きだなあ」と感じた

『そこにあるすべて』を写してみたいと思っているはず、

ということ。

 

その気持ちをどこかで置いてきてしまっているか

もしくは、切りとる行為に夢中で

「気持ちがいい」という感情と

「写真を撮る」という行為が

噛み合っていないことはないだろうか。

 

このことが、冒頭でお伝えした

「切りとる」というイメージの刷り込みをされた結果、

トラップに引っかかっているように思うのだ。

 

世界はそんなに狭くないはずなのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

まず、カメラのメカニズムや数値は無理してほしい。

 

その上でイメージしてほしいことそれは、

世界を四角く収める写真を撮るレンズは

凸面が丸く、すべてが丸い構造になっていることを思い出そう。

 

あなたが視ている世界、目の前の事象は3次元で

決して平面ではないように

カメラが写しだそうとしている世界も「丸く」なっているのだ。

 

この構造は人の肉眼によく似ているので

大きなキーポイントとして考えることができる。

 

レンズが丸いのであれば、フィルムに焼きつけられる

(デジタルであれば CCD 上の)世界は当然、丸く映っている世界。

 

つまり、世間で言われている写真で切りとる

というのは、

その丸い世界を “さらに四角く切り落としている”

ということになる。

 

 

 

収まりきらないリアルな世界をやっと丸くしたのに

さらに切り落としてしまう。

 

そうして切り落とされてしまったモノたちができてしまうことで、

わたしたちが感じた印象や記憶に残っているものが

重厚感のないペラペラなものになってしまうのだ。

 

おそらく、あなたにも、感動して写した写真の出来上がりを見て、

あの時写した感覚と違う、

と感じることがあるのではないだろうか。

 

視たこと感じたこと、心が動かされたこと

それらが写っていなくて

がっかりすることが少なくないかもしれない。

 

そのほとんどの場合

「あの時、感じたことやその場の雰囲気、

兆候のようなもの、空気みたいなことが写っていない」

ということだろうと思っている。

 

あなたがもし、一度でもこのように感じたことがあれば、

写真を撮るときに先ほどのレンズの構造をイメージしてみるといい。

 

 

あなたは、はじめに、いいな好きだな、残しておきたいなと

思ってカメラを構えるだろう。

 

そしてファインダーやモニタに写し出されている

「切り取られてしまった世界」で判断して

シャッターを切る、というのが今までのやり方だとしたら

思い切って一度、やめてみることだ。

 

繰り返すと、「世界は丸い」というイメージを思い浮かべて欲しい。

 

カメラを構えてシャッターを切る前に、

その丸い世界と、レンズの中に入り込んでいるものすべてを

意識しながらしばらく見つめることをして欲しい。

 

一枚の四角には、空気感という層ができ、

主体になっているモノゴトの輪郭が

いかに重層的であることが視えてくる。

 

 

世界は、時折、こちらのまなざしに対して

答えのような気配を知らせてくれる。

 

それが手応えとしてわかってくる。

 

あなたは、そうしてシャッターを切る。

 

すると、今までとは全く別の視点が生まれ、

あなたが感じた世界が写ってくるはずだ。

 

構造上、円錐の中に写り込ませるのが

カメラという道具のことはお伝えした通りだが

つまりは、写真表現や写実は

決して感覚表現のことではなく、

論理として「写り込む」ということになっている。

 

ほんの一瞬だけ過去の時間を

レンズが持ち帰って再現してくれている

そんな風にわたしは考えている。

丸く立体的で、何層にも時間が重なった世界。

 

それを四角く切りとって

余分な事象を捨ててしまうような撮り方をするのではなく、

そこへ投影されている兆しが感じられるかどうかは

見る側の眼にゆだねればいい。

 

 

あなたの感度と見る側の感動との境界線がなくなった世界が

写真となるのだ。

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