創作のひかり
出版事業, 日々の泡, 抽象風景, 随想

創作のひかり

 

 

 

 

 

人に教えるという場を持つことが多くなった。

 

 

新しいことをするのは楽しく

失敗するかもしれない危険も受け入れてこそ

その本質を考える時間を重ねられそうだ。

 

 

なぜか、文章の書き方を教えることになった。

 

 

ひとことでいえば、創ることだ。

 

写真表現にしても、絵を描くにしても

服を作るにも、料理の素材と味を決めるにも

 

器を作りにも、言葉を束ねて読み物を作るにも

すべて「わたし」という細胞から

なにかを生み出す「創作」に違いがない。

 

 

時代があっという間に流れ、気がつけばAIたちが

文章を書くという作業を

人間より完璧にこなしてしまう時代が来るのだとすれば、

 

わたしたちが創作のために

持ち続けておきたいマインドとはなんだろう?

 

 

それは、創作それ自体の性質だと思う。

 

 

もしかしたら、性質以上、むしろ「体質」

と言うべきかもしれない。

 

 

その特性として浮かんだことに

もっともよく使われる例えとして「音楽」がある。

 

 

創作は「作曲」と「演奏(または歌唱)」が

一つになって成り立つものだと考えている。

 

これは、写真家が作品撮影する創作の過程がそうであり

完成した作品もそうだと言えるし、

作家が文章を書きはじめる過程や完成作そのものだ。

 

 

音楽の言葉を借りると、

作品の前のほうでは「作曲」の要素の比率が大きく

後へ進むにつれて「演奏」の比率の度合いが増してみたいだ。

 

 

これは、創作をしたことがある人ならわかるように

密度が増す、とでもいうのか

 

その比率の度合いが途中で

なんどか入れ替わることもあって

けれど、冷静にその時間の濃度を解いてみても

両方の比率の差は僅かなものだったりする。

 

 

結局、創作のプロセスの基本にあるものは

「作曲」「演奏」この双方の対比のリズム、

 

つまりリヴァースだけなのだ。

 

 

創作の、そのような体質を心得ておいてこそ

作品として自然な輝き、静かな強さ

創造性に富んだ展開が生まれてくるのではないか。

 

 

「作品タイトルも作品の一部」、とはよく言われること。

 

 

まずタイトルからして作曲と演奏とが

リヴァースの要素を含んでいながら複雑に混ざり合い、

結合しそうでしないほうがより深みが増す。

 

 

これは、語り部や登場人物、

またそれぞれの名前も重要な役目を持つ。

 

 

また、書きたい題材もモチーフもしっかり決まっているのに

これしか思い浮かばないと思うようなタイトルや

登場人物の名前がどうしても出てこない時がある。

 

 

焦る時間ばかり過ぎてゆく。

 

 

タイトルはあとでゆっくり考えることにして書きはじめる。

 

 

しっくりこないまま「仮のタイトルや名前」で

書きはじめることもある。

 

 

けれど、そういう時に決してよい書き出しにはならない。

 

この経験を三島由紀夫氏は「筆が萎えてくる」

と手記に書いていてわたしは大いにうなずいたものだった。

 

タイトルというのは、ごく微妙な縺れや違和感があっても

作曲と演奏とが一つになって成り立つという、

創作の体質にすでに背いているからなのだろう。

 

 

職業作家と呼ばれるような文章を書くプロのなかには、

 

絶好のタイトルや主人公にうってつけの名前を思いつくまで

待っているだけの時間がないのだという人もいる。

 

 

彼らは、タイトルや名前が決まらないまま書きだしても

長年の馴れと感覚で様になっている作品に仕上げるのだろう。

 

 

実際、そんな見事な芸当をやってのける人をわたしも知っている。

 

物語に息を吹き込む、という出産作業を

生まずしてできてしまう職人肌の芸当を羨ましがっても仕方がない。

 

 

ここでしっかり振り返ることも大切だ。

 

 

書きたい題材、モチーフがしっかり決まっているつもりでも、

タイトルなり、名前なりが定まらない時には

実は、書きたい題材、モチーフがまだ本当には

「生きはじめていない」ことが多い。

 

だから、まだ書きだすのは早いということ。

 

 

タイトルあるいは名前が作曲と演奏との間で

決定的に閃いた時には、

書きたい題材、モチーフが本当に

息をして生きはじめたことをを実感させてくれる。

 

 

もう二度と訪れないかもしれない絶妙な感動、その味わい。

 

そういう歓びの体験こそが

創作というものを教えてくれる大きな機会の一つだと思う。

 

 

もっといえば、この快楽を

AIが味わうことができるとは思えない。

 

 

「非色」を書きだしたときの有吉佐和子さん、

「不機嫌な果実」を書きだした時の林真理子さんは

そういう悦びの極地にあって

生き生きとして筆を進めたのだろう。

 

 

わたしは、人に何かを教えるなどとは

本質的にはできないと思っている。

 

 

創作には答えなどない。

 

目に見えない手がかりが天から降りそそいでくるようなあの一瞬。

 

 

取りつく島もないこの広い世界で、

確かにつながっていると信じられるあの感覚を

誰かに伝えるにはどうしたら良いのか。

 

今日も音楽を聴きながら考えてみる。

 

 

 

 

 

 

 

「日々是写実」が電子書籍になりました。

撮り下ろしポートレイトを含めたフォトエッセイ集

Amazonにて発売中です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

https://www.amazon.co.jp/dp/B01M5EPZL9

Leave a Comment

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です