写真にとって究極的なことは

可視化できるひかりと、できないひかりの

両極を意識することだ、とフランス人の師匠から教わってきた。

 

それ以来、ずっとこのことを考えたいるのに

なかなか深く読み解けていなかった。

 

これは、両極を意識して視ていれば、

「自分だけの光が見えるようになる」

ということだと予測はできるのだけど

果たして、自分だけのひかりとは一体なんだろう?

 

目に見えているものだけが世界ではない、とは

頭ではわかっていても

実際、ファインダー越しに

それらを的確に捉えることができるのか?

と随分を悩んだものだ。

 

わたしが難しい表情で悩んでいると、

やさしい師匠はいつもこう語ってくれた。

「上手くできなかったら、アングルや方向を変えて

何度も写すことをやって見てごらん。

そうするうちに光の正体がわかってくるから」。

 

 

わたしは、自分の好きなひかり

例えば、初冬の朝の木漏れ陽の

淡いオレンジ色の粒子であったり

夕暮れの空気があたりを溶かしている時間帯だったり

春の散歩みちで出逢った、

どうってことのないひかりを集めたりした。

 

けれど、決して

《カメラが可視化できないひかり》が写りこんでいるとは思えなかった。

 

どうやら、そう解釈しているわたしは

ひかりの正体をじゅうぶんに理解していなかったから、

だと気付いた。

 

写真機が発明されてからずっと

ひかりの正体は何か?

それは波動なのか粒子なのか? と論議され

現在では、その両方の性質を持つと結論づけられている。

 

それらを考える時、

わたしはいつも「音楽に似ている」と想っていた。

 

音楽を低音、中音、高音とわけるように

光も赤外線光域、可視光域、紫外線光域、などに

わけることが可能だ。

 

音域でいうと、たとえば、普段

わたしたちが話しをしたり

無意識に聞いている音域は、「中音域」を占めているのだそうだ。

 

同じように、日常的に目にしている光景の多くは

「可視光域」と呼ばれる中間の光の性質に位置している。

 

 

 

ここで疑問が浮上してくる。

 

音も光も、「波動」だと認識している人からすると、

ひとつひとつの波の幅は同じものはない、という化学的事実だ。

 

そして、この問題が、写真にとって

《可視化できる、できない》に大きく関係しているのだ。

考えていると奇跡を写しているような不思議な感覚になる。

 

その点、音楽の場合わかりやすい。

低音域は波動の伝達が遅く、高音域は速い。

光の場合も「赤外線」は遅く、「紫外線」は速く届く。

 

速度の違うひかりをとらえ、アナログ表現ではフィルム、

デジタルに現すとセンサーといった感光材でひかりを感じ、

それを映像化するのが写真技術の本質だと言える。

 

たった20年ほどで劇的にデジタル映像が進んだため

今では当たり前となってしまっているけれど

本来なら、目に写っているものが

そのままに近い画像で再現されることは

相当な技術発展の結果であることは間違いない。

 

ただし、それは「可視光域」の中だけであることも

忘れてはいけない、と師匠は言いたかったのだろう。

 

だから、それ以外の光域に関しては、

実は真逆なのだ。

 

 

 

技術的に進歩し、完全な計測ができるようになったことで

レンズあるいはカメラ内部で、その光を整理し

不要なものは処理されてしまうようになった。

結果、感覚や印象は必要だと判断された

機会がわかりやすいと捉えた絵、だけが残る。

つまり、「可視光域以外の光域」が写りにくくなって

誰がみても同じような写りに画一化されてしまったのだ。

 

わたしは、このことを残念に感じているうちのひとりだ。

 

そうやって整理されてしまった印象のひかりというのは

写真にとって本当に「不必要な光」なのだろうか?

 

わたしたちの目に視えていない領域ではあるけれど

人間の感受性は、機械よりずっと優れているとわたしは信じている。

 

その証拠に、化学的に「視える」以上に

感覚的に「感じる」ことができる。

 

師匠が話してくださった

《自分だけのひかりが見えるようになる》とはこのことなのだろう。

 

感覚的に心地よい、と感じたひかりは

色味があたたかく、全身がゆるむ。

 

あたたかい、冷たいと感じることも

夕陽を見て眩しくて切ない、と想うことも

知らない街で出逢ったにも関わらず、

なぜか懐かしい光景に映る、という理屈のない現象も

わたしたち人間だけが「感じることができる」素晴らしい才能だ。

 

いい写真と呼ばれるものの多くは

そう言った感覚的な部分が写っている作品ではないかと想う。

 

もちろん、難しいことは一切考えずに撮られた

「いい作品」もたくさんあるけれど

それらをよく見てみると

純粋に「きれいな光だな」「気持ちがいいな」

「この感じ好きだな」と撮影者が感じて

シャッターを押したに違いない写真ばかりだ。

 

写したい、と想ったことは

どんなことであれ、その瞬間の気持ちや感情が

自然と写っているものなのだろう。

 

さらに言えば、その感情部分を怠ると

いきなり何も写らない、ただシャッターを押しただけの

薄っぺらな絵になってしまう。

 

ある意味、これも写真の真理の一つなのかもしれない。

 

 

 

わたしは、自分の好きなひかりの印象を写すことを

意識するようになってから

さまざまなひかりの質に向き合ってきた。

 

過去に事故をして視力にダメージを持っているわたしは

ひかりがある程度強くないと、ていねいに物事が見え難い

というコンプセックスを抱えている。

 

わたしの肉眼の見えやすさだけを優先すると、

光と陰のコントラストが強い、真夏の太陽光のような

ぎらぎらした質感ばかり反応してしまうのだ。

 

けれど、好みの光の質は、

プリズムの揺らぎを感じるような

ソフトで動きのある、淡くとろけそうな静かなひかり、だ。

ほんの数ミリのピントをすくいとるような

デリケートでやさしい感動。

 

それには、どちらかというと弱い光が適切だし

暗い場所でも視力を求められるようなスチエーションが多い。

 

そうして自分の好みのひかりのイメージと対峙した時

自然と、紫外線光域で撮影するようになった。

 

このとき、被写体ではなく

光を撮る、ということがやっと理解できた。

 

わたしが選んだのは

シャッタースピードが速く、それゆえに具体的な形状や

被写体ではない場合も多い。

物質的なものよりも、印象の方が強く残りやすい、

そんな眩しいひかりの領域に近づきたい。

 

 

 

朝起きて、肌寒く感じながら窓辺に立つ。

 

曇り空のなか、葉を黄色や橙に染めた樹々の淡い影を見つけると

わたしだけが視える光に出逢えるような気がしてワクワクする。

 

長い間、可視化できる光とできない光の両極を意識して

ようやく理解できてきた

わたしだけの印象のひかりの時間だ。

 

 

 

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