わたし達人間を含むすべての生きものは

命の循環、種の保存のため万物から連続した感覚を共有して

生きた証を残すために生きていると考えてきました。

 

創作者やクリエイターはその自然の法則に基づいて

自己表現という創作を通して

生きた証を残しつづけている、そんな確信です。

 

自然現象の不定形の存在を捉え

それらを抽象的に可視化するのが創作だとしたら

わたしも日々呼吸するように

本能に従って生きているひとりだと思っています。

 

そのような意味で、表現活動とは

これまでのわたしをやさしく導いてくれるエネルギー源でした。

 

そして、自然観が現代の私たちの記憶に

脈々と継承されているからこそ

アートや写真表現などと言って歓んでいられる、

感動することもできる

そんな壮大なありがたさも感じることができます。

 

人間の身体性を駆使しながら時間を蓄積し

”瞬間の質量”を可視化した写真表現をなぜ続けているのか?といえば

 

それはひとえに”今”という瞬間と丁寧に向き合うことの重要さを

感じてもらいたいと願うからです。

 

ひとひらの花びらが存在するには1つの宇宙が必要で、

花びらより遥かに大きく複雑な存在である

人間の“今”を記録するなど実際には不可能に近いのですが

 

それでもこうして表現し続けるのは、

現代の時間から抜け落ちている“本質”の発見

としての役割を果たしたいという欲望があるから。

 

現在を生きる自分自身の時間をモノクロームから透かし見ながら、

あらゆる悲しみ、執着、希望や絶望が存在しない空間である

”生と死のあいだ”に心を漂わせてみる。

 

だれもが大きな”生と死のあいだ”に包括され、

無数の”生と死のあいだ”を生きています。

 

ひとりのいのちの時間は、花びら一枚以下の長さなのか?と考えたとき

完璧な世界のなかで何かが失われれば、

確実に一つの欠片を失うことになるのかもしれません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です