パリからの帰路

帰国する日の朝、車で空港まで向かう道すがら、

窓の外に数日前に歩いた蔦のからまる館が見えた。

あれは、ピカソ美術館へ行った帰り道だ。

次々に目の前を飛び去ってゆく木立の合間に、

道がとぎれとぎれにつながって見える。

 

 

ああ、そうだ、

あの橋を渡って振り向くと、エッフェル塔が見える空が写るのだった。

 

 

あの路地も覚えている。

最初の分岐を曲がり切れば、赤い屋根のカフェが見えてくるはずだ。

 

 

30分も待たされてオーダーしたクロックムッシュの

黄金色のチーズとバターの匂い。

パリパリのレタスがはみ出た大きな白いお皿に反射して写るパリの空。

あの道を過ぎると、そう、小さな図書室があるんだった・・・・。

 

 

歩いたときには数時間かかった道も、

車ならあっという間に通り過ぎてしまう。

 

再び目にしたあの日と同じ光景は無性に懐かしく、

ああ、ここはわたしの歩いた道なのだと思った。

 

 

パリのような世界的観光地は、

数週間の滞在はとうてい回りきれなくて

 

わたしの歩いたのもごく一部で、

パリのことを知ったとはとても言えない.

 

けれど、少なくともこの路地は歩いたという事実がわたしの中にある。

 

地図を片手の何度も迷いながら、知らない路地を歩き

目的地を探して過ごすのはわくわくして楽しいものだ。

角の公園の前の古いアパルトマンの5階から

夕方の6時になるとアコーディオンの音が聞こえてくることや、

 

 

工事中の壁の向こうによく手入れされた中庭があって

その奥に揺れる野ばらと戯れるのが好きな子猫が2匹隠れていることや、

 

 

「神さまが僕に旅をつづけなさいと言っている」と

話しかけてくる青年の右足が義足だということや

 

 

そのことを教えてくれたパン屋のマダムは昔、保育所を経営していて、

今でも近所の子供達の世話を焼き毎朝バゲッドを届けている。

 

 

そんな風に無秩序にわたしの記憶の地図に描きこめる。

 

もし誰かに聞かれたら、その公園を曲がって

どんな窓を見てどんな色の壁を目指せばいいかも

ルートに描いて話してあげられるだろう。

旅に出てまたいつもの生活に戻るとふと感じることがある。

 

 

モロッコを旅したときは

立ち枯れた枝しかない砂漠の大地を踏み、言葉も通じないまま

砂漠の孤独だけを感じて

そのスリルごと味わってきたのだけれど

 

 

その地を離れ帰国したと同時に

わたしの後ろで扉がぱたりと閉められ、

 

そんな出来事はなにもなかったかのような顔をして、

モロッコという空間がすうっと遠ざかって

単なる地図上に表記されただけの国に

戻っていってしまった気がしたのだ。

たとえば、日本であれば、

高い山の頂上に登ったその日に一気に山を下り、

夜には日常に戻っていつものソファで猫を抱いたときに

 

今朝、あの山頂で見たご来光は

夢のなかの出来事だったのではないかと

疑問に思う一瞬に襲われることもある。

 

 

もしかしたら、

いま、目の前を通り過ぎてゆくパリの道も

見えなくなってしまえば現実とはつながりのない夢のなかの存在にしか

想えなくなるのかも知れない。

 

その感覚は、本を開けば物語の世界がそこに大きく展開し

閉じればまたなくなってしまうのとよく似ている。

 

 

自分が見ているときだけ世界は現れ、

見ていないときには霧のように消えてしまう。

 

 

見えているのは目の前だけで

振り向くと自分の後ろは真っ暗闇なんじゃないかと思う、

とある写真家がむかし言っていたが、そんな感覚だ。

 

当たり前だけれど、わたしはそこにいないだけで

それを見ていないだけで、

世界は当然存在しているし刻々と時間は流れている。

 

 

わたしがそこにいようがいまいが

パリはそこにあって人々はあの道を歩いてゆく。

 

パリに限らずあらゆる世界は自分に関係なく存在している。

 

自然のなかにいたり、旅の途上にいると、

そのことを痛いほど思い知らされる瞬間がある。

 

 

自分の目にしている空間

過ごしている時間

そして自分の体験は自分だけのものでしかない。

 

この先わたしは、世界中はおろか

パリの道でさえそのすべてを歩くことはできないだろう。

 

しかし、それでいいのだと思う。

そういうものだ。

 

少なくともわたしのなかにはパリもモロッコも、

わたしの体験した世界は確実に存在しているのだから。

 

 

現実世界と別世界、

表側と裏側を行き来すること自体が

旅の時間なのだから。

 

車はとっくにわたしの歩いた路地を離れ、空港へと近づいている。

 

 

 

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