浮遊しないイデア
写真論, 日々の泡, 抽象風景

浮遊しないイデア

ame

最近、わたしを悩ますのは

写真表現の斬新とは?

 

というアーティストの命題のこと。

 

 

このことはもちろんわたしだけではなく

多くの写真表現者や創作者が

独自表現の中で、

何度となく壁に当たり

常に背負って歩みつづけているのではないかと想像する。

 

その写真表現の斬新だが、
 
考えはじめるとわたしは

世論に疎いことが手伝って

「斬新さ」の正体がまったく理解できなくり
 
新しさを求めるあまり

わたしがどんどん

懐古主義になってゆくような気がしてならなかった。
 
 

 
これは危険だと思い

この頃は2方向に考えわけることにしている。

 

 

それは

「無意味な斬新さ」と

「意味を持っている斬新さ」。
 

 
たとえば、無意味な斬新さが見えてしまう作品は

写真表現の動機がごく衝動的であったり

脆弱さが浮き出てしまっている。

 

 

そのような無意味さを前にすると

仮にアートに馴染みがないひとでも

内容に深みのない気配らしきものを

嗅ぎわけているような気がするのだ。
 
 

若きころ、わたしにも

そういう時期があったからこそ

わかる現れ方だろうと想う。

 
 

世間の流行を追い求めてしまうメンタル、

アイデアの希薄、

誰かのコピーだけをひたすら追求してゆくなど
 
若く未熟なころはいろいろな要素が考えられる。

 

 

 

自己対話も少なく、

良き指導者にも恵まれなかった場合

この無意味さの森でじっと暮らすことになる。
 

 
それはつまり、

明確な創作哲学がないまま

自分らしさがブレてしまい
 
作家自身の衝動的な感性のみが
 
優先されてしまうのだ。

 
 
特に最近、そのような背景を持った写真表現が多い。

 
 
結局のところ、写真表現の難しさは

技術的にイージーになった引き換えに

イデアのない情報のみが大量生産され
 
消費すらされないまま

空気中に浮遊する有機ガスのように

ただやみくもに揮発しているのだ。

 

 
そして、日常のあらゆる空間で

同じ浮遊物を呼吸している縮図になっている。
 

わたしは、そのことが

ほんとうに大切なものまでも

消滅していっているのではないか、という

危うさを感じてしまう。

 

 

 

では、「意味を持っている斬新さ」はどうか。

 

 

意味を持っている斬新さの作品は

誰もが瞬時に得ることのできる

エネルギーが潜んでいる。

 

 

わたしたちの奥深くにあるなにかに

真っ直ぐに届く声が聞こえるものだ。

 

 

その声の正体が

創作者のイデアであり

テーマやコンセプトだと考えられる。

 

 

目の前に存在する事象を写すのではなく

生きるものの内的会話を

注意深く汲みとり

カタチにしたとき
 
その形而上に浮かぶ

輪郭や高低や、深さや重量感は

必ず感じることができるものだ。
 

 
それこそが、写真を想うとき避けられない

「写すという行為」ではないかと想う。

 
わたしたち創作者は

カメラ装置に捕われることなく
 
より自己のエネルギーを引き出してくれる
 
記憶装置として意識を向けるきなのだろう。
 

 
懐古主義に陥らず、流されず

それでも常にわたしたちは

斬新さを欲しがり、

強く要求されている。
 
 
その宿命を笑顔で引きうけることが可能かどうか?

 

 

斬新さの前に創作者が

そう問われている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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