Model: 心月-mitsuki-

 

 

アーティスト向けの個人セッションの場合、

普段からテーマ性を与え作品撮りをしてもらっています。

先日、「考えすぎてしまって撮れなくなった」という方から

ご相談を受けました。

 

課題は「知らない世界」。

 

さて、「知らない世界」と聞いて

どんなふうに撮ろうと考えるでしょうか?

 

唐突な問いにお付き合い戴ける読者さまの

クリエイティヴィティと妄想力に興味が湧くところです。

 

まずはわたしから

少々俗っぽいかもしれないけれど

「知らない世界」について書こうと思います。

 

例えば、「ヴィーナスの誕生」のように、

神秘的な古代ギリシャの宗教画のような絵画がわかりやすいでしょうか。

ボッティチェリが描いた華やかで優美な、この世ではない世界。

愛の女神ヴィーナスは貝に乗り、

バラの花に囲まれている風の神たちが岸辺へ運んでゆく。

 

かつて絵の概念は、現実や写実的な正確さよりも

「神話の中に深い真実がある」とされた風景を描くのが習慣でした。

 

その後、“日曜日の逆光の川面はこんな光の色でした”

という絵画を描き、その純粋さゆえに

これは絵ではなく「ただの印象を描いたにすぎない」

と卑下されたが印象派のスタートです。

 

同じように写真にも、深海やアマゾンの奥地や宇宙から見た地球や

簡単に海外には行けなかった頃の

「写真家が見た南フランスのひかり」といった

普通は見ることのできない世界へ迫るのが写真の主流だった時代があります。

 

けれど、いま、わたしたちが「知らないない世界」という

文字通りに、まだ見たことのない世界を探すことは

途中で心が折れそうな困難な作業だということはお気づきだと思うし

むしろ、そんな世界はないのではないか

という予想の方が遥かに正しいのかもしれません。

 

冒頭の「考えすぎてしまって撮れなくなった」

と悩んでしまった方に、どうしたらお伝えできるだろうと想い、

わたしはこうご提案しました。

 

“いつも目にしていたように思えても

いまというその瞬間の

さりげないけれど二度と来ない事象が目の前にある、と考えて

すべてを撮ることがベストです”、と。

 

上の写真は、早朝の日本海へ行った時のもの。

曇り日で肌寒い海岸は人の姿がなく

遠くで漁をする地元の人たちを乗せた船が

おもちゃの人形のように小さく上下に揺れている。

 

この日は時化で、朝焼けの海には出逢えそうもなく

寒くて退屈で、もう帰ろうと思ったその瞬間、

この退屈さを撮っておこうと

わたしは望遠レンズを最大にし手振れを気にせず連写した。

 

この崖は何というところのか?

なぜ、こんな場所を選んだのか?

写っているのは誰なのか?

訳ありの状況なのか?

そもそも、どういうテーマで撮っているのか?

いま見ると、自分でも何を考えていたのか

不可思議なことばかり視えてきます。

 

このとき、人は、「写す」「現像する」「写真を見る」という

3つの時間によって成り立っている写真のトリックを実感します。

 

「写す」は一度きりしかありません。

「現像」もフィルムであれば二度目がないでしょう。

 

わたしたちには「写真を見る」という時間だけが

何度も繰り返しやってきては、そのたびに

遠い記憶と、現在の違った想いが浮上してくるのだと思います。

 

その成り立ちは、実物を現場で見るよりもずっと味わい深く、

現実から切り取られた領域へと変容してゆくようです。

 

この写真には、寂れた海の肌寒さも、帰りたかった衝動も写っていません。

そして、もう二度とこの場面には出逢えない

けれど、世界中どこにでも存在する情景でもあるのです。

 

この意味不明なモノクロの情景。

ピントも甘く、テクニカルな部分では何も語れないけれど

それも含めて撮ってみて初めて体感した

わたしの知らなかった世界が立ち現れたのでした。

 

 

 

 

 

蜜月 MITSUGETSU  Eternal timelessness

 

 

 

 

“知らなかった世界” への2件のフィードバック

  1. 島津さん、コメントありがとうございました。

    上田義彦氏が「写真はいつでも奇跡だ」とお書きになっていました。
    本当にそうなのですよね。つい忘れちゃうけど。

  2. 「もう二度とこの場面には出逢えない」
    撮ることに行き詰ったとき、
    この言葉を思い返します。
    ありがとうございました。

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