パリの写真美術館で「現代アートと未来」という

インスタレーションを観たことがあった。

 

国際的に評価の高い現代アートや、ポートレイト、

前衛写真のこれからの動向を紹介してくれるもので

多くのアーティスト達も注目していた。

現代アートをはじめて観る、という人にもわかりやすい。

 

わたしがインスパイアされている写真家も参加していた。

すぐに各国で話題になり、世界的にも成功したインスタレーションだった。

 


「前衛」と聞くと、硬派でわかりづらいイメージがあるが、

このインスタレーションでもやはりそういう「らしさ」が

散りばめられていたように思う。

 

全体の構成は男性的というより女性的で、理性的というより感情的。

整然ではなく混沌、直線よりも曲線、

厳格さよりも甘美さ、組織的ではなくフリーダム…

そんないかにも「直感」を信じているといった印象が

写真家たちの個性を超えて感じられた。

 

それぞれの「直感」で未来を見つめた作品を見て歩いていると、

鑑賞者の足をとめるものの特徴がある。

 

あるインドの若手アーティストの作品は、

空港のX線検査や会議室のような部屋、

ビル内の廊下、バスルームなど

変哲のない場所ばかりを撮っているようだが、

観ているとどこか様子がおかしい。

 

不自然というか現実感がないというか、

妙に無機的な感じがして

オーディエンスはそれが気になってじっと見入ってしまう。

 

妙な感じはするのは当たり前だ。

その作家が撮影した空間は、すべて紙で作られた原寸大の模型であった。

 

そのためわたしたちは、CGなどのバーチャルな世界を

リアルに現出させたもののようにも見えるのだ。

 

また、世界各国の都市でポートレイト撮影をしていたアーティストは、

写っている現代人たちがいわゆる現代らしくなく、

笑ったりすましたり、緊張したりという何かしらの表情が消えている。

 

写っているのは感情を感じさせない無表情な人間の姿ばかりで、

生命感が全く感じられない。

 

人物写真としても彼ら彼女らは

決して不幸ではなさそうだが、さりとて幸福とも思えない。

 

現代に生きてそれぞれの生活がある背景さえ抹消しているかのように

女性は色気や生活感をなくし、男性はただただ不安そうに視える。

 

着ている衣装も性別を感じさせず、色もトーンも似通っていて

どうにも形容しがたい印象なのだ。

 

それでも、視線はしっかりとこちらを見据えている。

 

これらの写真が鑑賞者の足を止めるのは、

まずは見た目にインパクトがあるからだ。

 

現実感のない見慣れた光景、現代人らしくない人間

といったモチーフを配し、視るものに問いを生まれさせる。

 

出逢った瞬間にキュッとこちらの注意を引きつける、

いわば“つかみ”のある写真の羅列に

人間の本能は抗うことのできない不思議な刺激をうけるのだ。

 

このパッと見たときの“つかみ”は、多くの場合

このような意外性や、はじめて体感する感覚のこと。

このスタンスは「視覚的つかみ」とも呼べるだろう。

 

さらに、未来を見つめる前衛作家たちの作品は

「視覚的つかみ」だけにはとどまらなかった。

その空間で作品を見ていると、

いろんなことを考えてしまうように構想を練られてあるのだ。

 

なぜ、わざわざ紙で作った空間模型でなければならなかったのか、

とか、

なぜ現代人らしくあってはいけないのか、とか。

 

こうして作者の真意は何なのか・・?

と、作品を前にあれこれ思いを巡らすことが、

まさに作品に引き込まれることにほかならない。

 

紙の空間や無表情の人間といった演出は、

明らかになんらかの意図のもとでなされている。

決して、偶然こんなふうに写ったといったものではない。

つまり、作者のある考えが演出によって表現されているのである。

 

逆に言えば、演出の裏側には

作者を通して世に問おうとする考えや思想がしっかりと潜んでいる。

いわば「哲学的引き込み」と言えるだろう。

 

 


《美学〜美しい(と感じる)ものに関する哲学的論理=思想 人生観》

 

パリで出逢った現代写真には、このように

「視覚的つかみ」と「哲学的引き込み」が兼ね備わっていた。

これは、いまのアートシーンにとってきわめて示唆深いものがある。

 

しかし、写真も含めて現在の日本のアートシーンは、

総じて「視覚的つかみ」一辺倒である。

 

たしかにセンスはいいかもしれない。

メディアの使いこなしも上手く、

セルフプロデュースにも直結してゆくのであろう。

 

クールであったり、穏やかであったり、

面白く、ときには意表を突かれて驚かされる怪奇さであったり

季節を感じさせる物語であったり・・・

と「いま、ここにいる自分」を魅せるバラエティーには富んでいる。

「視覚的つかみ」という観点からは十二分に実力が発揮されている。

 

ところが、「哲学的引き込み」はと見れば、これがほとんど欠落している。

 

そのため一瞬、視線が奪われることがあっても、

そこからさらに作品に引き込まれ、作品を通して何かを考えさせられることや

永く記憶に残るといったことはほとんど皆無になってしまった。

 

どこか表面的で薄っぺらな印象が拭えない。

 

世界の前衛アーティストたちは決してそういう浅はかな表現はしない。

 

年齢も若く、これからの未来を担う本物の「直感」がそこにある。

 

未来を視る人は「視覚」+「哲学」で作品を創り、

いましか見ていない人は「視覚」のみで創っている。

思考の違いの本質は、そこにあるのだとわたしは想った。

 

「視覚的哲学=美学」

 

こんな風に現代アートを述べていると「ビジュアルオンリーではダメ」

といっているように思われそうだが、そうではない。

あまりにも無頓着に哲学をはぐらかすのを危惧しているだけだ。

 

現代人はとっくに悟っているのだ。

哲学なしで勝負をするのなら、

本当は並外れた美学が求められるという責任の重さを。

 

その覚悟もなしに、イージーな承認欲求で

自分がカッコイイと思うヴィジュアルを求める人があとを絶たない、

という退屈な世界ともに暮らしていることを。

 

これでは、表現者のみならず感性が育たないのも仕方がない。

 

もっと言うと、安易に哲学を捨てる人間は

なにをしても長続きをせず、一過性に終わるだろう。

 

太古の昔から、創造は想像することからはじまる。

そして、もっとも新しい感覚と直感が

「視覚的つかみ」と「哲学的引き込み」の両端をにぎりしめ

価値のある時間を創ってゆくのだ。

 

 

 

 

 

 

 

www.maquiphoto.com/photobook

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です