「光読み」についてさまざまな解釈がある。

 

わたしの考えが正しいかどうかは別として、

「光を読む」ことの大切さについて考えを伝えるとしたら

 

まず、写真は光がなければ撮れないという真実。

 

 

 

目の前のこの光であれば、

今、シャッターを切って写真にしたときにこういう結果が生まれ

こういう絵になり、一瞬の美を創る。

 

その絵は穏やかに、鮮烈に、濃く、

混沌として揺らぎ、無秩序に・・・

 

つまり、見る人へ届くあらゆる情感を意識すること。

 

 

そういう意味で、写真は推理だ。

 

完成された未来の絵を予想して創作する。

 

例えば、この日、わたしは日没のパリの空の

光を無心で読んでいた。

 

 

北ヨーロパの冬。

 

目の前から完全に太陽が消え、

重く灰色に行き交う雲の色が写真に収まるのだな、と予測し

殆どコントラストのないモノクロームの街を歩いていた。

 

 

明日、帰国しなければならない。

 

なのに、今日は全く撮れていないし雨も降り出しそうだ。

 

一枚も残せずに寒い雨の中歩き回るのは辛すぎて

カメラバッグが左の肩にさらに重く感じた。

 

道路脇にはオモチャの家のような屋台のクレープ屋が

ピンク色の派手なネオンを吊り下げている。

 

甘ったるい匂いが髪の毛に絡まりそうな勢いで

わたしの方へ重たく流れてきた。

 

 

甘い正体は、パリならどこにでもあるヌテラという名前の、

甘いナッツ味のペーストをたっぷり塗ったパリのクレープ。

 

 

ちょうど日本のたい焼きのような、

懐かしく忘れがたい味なのだとフランス人は言う。

 

 

わたしは好きでもないくせに、帰国する間際になると、

この道端のクレープの安っぽい匂いを思い出すのだった。

 

 

この日もお決まりのように、

甘いナッツと小麦粉の焼ける匂いが鼻腔を満たし、

少しだけ寂しくなった。

 

 

ぼんやりしていたのか

激しいクラクションにどきりとして振り向くと

黒人のタクシー運転手に帰れ! と怒鳴られた。

 

帰れ。

 

そうだ、わたしは、明日、日本へ帰るのだ。

 

 

クレープが鉄板で焼ける甘ったるい匂いも

目の前の暗い朝も

バス停の割れた掲示板も橋の下のホームレスも

擦り切れたブーツの底も

懐かしいと想う間もないくらい、

明日からまた退屈な日常が待っている。

 

 

わたしは重い足取りで

灰色のサンリュピス通りのカフェテラスに荷物を降ろし、

エスプレッソを注文した。

 

 

その途端、窓際の席から

濡れた石畳の上に揺らぐ冬の光線が視えた。

 

 

その光の先には、窓辺で本を読む女性がいる。

 

僅かに湿ったモノクロームの道に流れる強い曲線を予期しながら、

わたしは、ああ、今、確かに視えた、と思った。

 

 

パリの街角に宿っているのは、

この光に眠る哲学を守るために

シャッターを切り続けたかつての写真家たちの寝息だ。

 

 

やがて雨が降り出した頃

残されたのは帰国前のひとりの東洋人だけではなく、

 

密度の濃い時間を、1秒でも多くこの手に収めたいと

欲望している一つの魂そのものになった。

 

 

焦がれるように観察したその情景の時間の裏側に

わたしが存在したのだという想いが押し寄せては渦を作ってゆく。

 

 

それまで、わたしにとってパリの街のイメージはどこか不自然で

変えられない絶対的なものとして立ちはだかっていた。

 

だからこそ、まだ見たことがない姿を残したいと挑む

壊れない頑丈な鍵とドアのような存在だった。

 

 

その分厚いドアを開ける秘密の暗号を読み取ろうとして

何年ももがき苦しんできた写真家は多い。

 

わたしもその一人なのかどうかは未だにわからないけれど、

全てが色彩のない姿になった細い雨の降る日、

 

 

今までの争いを無意味にするほどの美しさを受け入れると

灰色の重い空はわたしの渦と同化し、

知らぬ間に自分の写真が読めたのだった。

 

 

光の眠る哲学は

わたしの中にも

ほのかに明かりを灯してくれている。

 

 

 

 

 

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