william-eggleston

 photo @william eggleston

 

 

スタジオ時代に知り合ったユウ先輩は

別名モノクロ先輩と呼ばれていた。

 

その名の通り、彼はフィルムのモノクロ信者で、暗室大好き人間だった。

逢うたびにモノクロ以外は写真じゃないと豪語していた。

彼は黙ってカメラを構えていれば、女の子からモテるタイプの

いわゆるクール系男子で、ファッションも洗練されていて音楽の趣味も良かった。

 

ただし、どんなに素敵な女の子でもモノクフィルムでしか撮らないので

仲良くなって撮影してデートまでこぎつけた後、

現像しプリントするまでに数週間掛かる。

 

「それが待てないのよね」と超現実的な言葉がさよならがわりになって

相手の女の子と音信不通になるという、微妙なカメラ男子でもあった。

 

だから、彼の撮るポートレイトモデルは、

その待てなかった女の子たちとのたった一回のセッションばかりで、

最初の撮影独特の照れのある表情が多かった。

 

そんな不器用なユウ先輩は、カラーは仕事だから撮るんだ、

と自分と周りに言い聞かせては

女の子にモテながらも逃げられ続ける、という不思議なキャラクターで一線を走っていた。

 

いつ頃からか、デジタルカメラが主流になると

ユウ先輩は友人と借りていた暗室を失うことになった。

貸し暗室という事業が途絶えてしまったからだ。

デジタルデータで、いわゆるモノクロ変換機能の写真を

Macで簡単に作り出せるようになると、

彼は写真をあまりモノクロで表現しなくなった。

 

彼らしい、表情が初々しいポートレイトも撮らなくなり、

みるみるうちにユウ先輩はクリエイティブ活動が少なくなってしまった。

冴えない顔をしたユウ先輩はカラーをモノクロに変えているという考えを

どうしてもぬぐい去ることが出来ない、と言っていた。

 

これは彼的には「本物じゃない」「違うもの」というような

意味と同義語なのだそうだ。

 

この考え方が間違っていることをわたしは知っていた。

本来、フィルムだろうがデジタルであろうが

モノクロが適している被写体、テーマがあるのなら

きちんとモノクロで仕上げるべきなのだ。

 

確かに彼の作風は圧倒的にモノクロームかも知れないとは思ったが、

それは心にしまって置いて、微妙な心境のユウ先輩を遠くで見守っていた。

 

 

eggleston_600

photo @william eggleston

 

 

そのモテで不器用なユウ先輩は、

現在は“モテで器用な写真家”へ見事に変貌している。

 

そう、カラー写真を素晴らしく繊細に撮る作家になったのだ。

 

ある日ユウ先輩の個展の打ち上げで

駅裏の商店街にあるホルモン焼き屋に集まった時、

どうして心変わりをしたのか? とみんなで真剣に聞いた。

 

しっとりとしたフィルムの色調を残したカラフルで艶のある、

大人っぽいポートレイト作品にわたしたちは見惚れてしまった。

 

それまでのモノクロ先輩と呼ばれていた頃の作風は、

初々しいポートレイトではあったけれど、

どこか刹那的に偏っていて不安定な気もしていたのだ。

 

ユウ先輩はわたしたちの質問に真剣そのもので

ひとこと言った。

「エグルストンにやられたよ」

世界中でこのセリフを放ったフォトグラファーが星の数ほどいるだろう。

 

それはまるで圧倒的に若くて美しい新人女優か誰かに

宿命的な恋に落ちたような言い方だった。

 

そして、わたしは、そんな“やられた人たち”をこれまで多く見てきた。

 

 

 

7184Cz9D-ML

 

photo @william eggleston

 

 

ウィリアム・エグルストンのことを改めてここで書こう。

わたしはこれまで、写真表現において、

事象を強く感じることは出来ても、実際には目に見えない光や、

時には光に限ったことではないとしても

自分が感じた時の、 “感覚”のようなものを

どうしたら少しでも写すことが出来るだろうか、という

永遠の課題について書くことが多い。

 

その中で、普遍の印象というものがあるとしたら、

ウィリアム・エグルストンが本質を捉えていると思う。

 

彼は、特別な機材を使わず、実際に肉眼で見たときの印象に

最も近い写真を撮れると呼ばれているライカと標準レンズで

それを証明してくれた写真家だ。

 

同時に、彼はカラー写真がどれほど普遍的な表現力を

持っているのかということにも挑戦し続けている写真家でもある。

 

成長期のアメリカで、現代アートの世界でもモノクロとカラーに関して

その扱いに対する葛藤があった時代があった。

 

そもそも、ひとつのネガから同じものをコピー出来る写真プリントというものが

この世に一品しかないから価値がある芸術の世界で扱われるまでは紆余曲折があり

 

巨匠アンセル・アダムスやエドワード・ウェストンら

「f/64」というグループがモノクロプリントを

“美術館やギャラリーなどで保存する価値がある芸術作品である”

 

という考えを世の中に定着させた後、

アート作品として取引されるのはモノクロプリントばかりだったのだ。

なぜかというと、その当時、カラー写真は商業用の写真としての地位を

越えることがなかったからだった。

 

この壁を破ったのが、1970年代後半に出現した写真家、ウィリアム・エグルストン。

 

1939年、アメリカ、テネシー州で生まれた彼は

自分の街をフィルムに収めつづけた。

そして1976年、MoMAニューヨーク近代美術館で

彼は写真展を行うことになるのだが、

美術館としては初めてのカラー写真による写真展だった。

しかし当時、長期保存する際に褪色してしまうカラープリントを

美術品として保存してもよいかどうかという大論争が起こった。

 

結果的にこの論争が彼をさらに有名な写真家にし、

彼の作品は写真界において「ニュー・カラー」という

新しいムーブメントを巻き起こす起爆剤になったのは有名なストーリーだ。

 

そのようなアート界での論争があってこそ、

カラー写真が美術品として扱われるようになったのだ。

 

話しを戻すと、ユウ先輩は、この「ニュー・カラー」にやられた、のだった。

 

大雑把な分類をすると、写真家は2つのタイプに分かれると言われている。

 

アンセル・アダムスのようなタイプかブレッソン・タイプだ。

日本でたとえて言うなら、

土門拳タイプか木村伊兵衛タイプといったところだろうか。

共に前者はハッキリとした意図や被写体が写真の中に存在し

それを緻密な構図や技法で表現するタイプ。

後者は時間と空間の流れから一瞬を切り取り、そこにある間や空気感を切り取るタイプ。

前途したウィリアム・エグルストンは後者に属する写真家で、

ユウ先輩の写真の好みも後者に属する写真だ。

 

先輩の話では、エグルストンは写真史においてあまりにも有名な人物なので

今までに何度も彼の作品や写真集を目にしたけれど、

全くと言っていいほど、彼の写真を理解できないでいたのだそうだ。

 

わたしもこの意見には賛同した。

 

当時は理解に苦しむ写真家のひとりだった。

なぜかというと、ぱっと見スナップ好きなカメラ女子やイマドキ男子たちが

ミラーレスカメラを首からぶら下げて

気軽にカシャカシャ撮った写真と一体どこが違うのか?

区別判断が難しい写真の数々に見えたのだ。

 

分類不能なジャンル。

 

とユウ先輩は自分のカラー写真へ取り組んだきっかけについて話してくれた。

 

「ね? わかるでしょ?

エグルストンの写真は、その新ジャンルの頂点へ

辿り着いた者だけが君臨できる領域に達しているんだってこと。

つまりはノージャンルさ。」

 

個展が終わった安堵からか、珍しく酔って

エグルストンの魅力について熱く語っていたユウ先輩は、

昔のモノクロばかり撮っていた頃の

微妙なカメラ男子くんからワイルドさが加わり、

絶妙な違いのわかるモテオヤジに確実に近づいていた。

 

ホルモンを焼きながら聞いていたわたしたちも、

先輩の作品の変わりようを目の当たりにした直後だったため、

彼の話に前のめりになっていた。

 

そして、酔った雰囲気で話し足りなくなくなったのか

今からスタジオにおいでよ、と

終電で帰ろうかと思う頃を見計らってわたしたちを一撃した。

 

誰も断りきれず、そのまま彼の自宅スタジオまで連行され、

総勢10人でエグルストンのドキュメンタリーフィルム、

「William Eggleston in the Real World」を観た。

 

そして、少なくともわたしは稲妻が堕ちてしまった。

なんという、純粋な写真家だろう。

 

その時、ユウ先輩が自宅で見せてくれたエグルストンの写真を

わたしは忘れ去ることが出来ない。

 

その感覚は、ホルモン焼きの匂いが染み込んだTシャツとともに、

わたしの脳細胞や身体の隅々に定着し、赤々とした鮮血になっていったのだ。

 

昔は理解できなかった彼の写真がどうしてその時から共感し感動できるのか?

 

それが、前途した

“実際に肉眼で見たときの印象に最も近い写真”だからだ。

 

エグルストンが撮る街の風景には、ゆっくりとたゆたうリズムが存在する。

 

それは彼が長年撮り続けている地元のメンフィスも

パリや京都などの異国の都市も同じだ。

 

これは、つい見逃してしまう部分だが、大量の写真を見ていると

彼の肉眼とカメラの関係性がどれだけ天才的かがわかってくる。

 

どこかに神のような装置があって、その眼を通したレンズで

“これ以上、普通にしかできない”状態に変換され撮影されたような作品なのだ。

 

そこには、緻密にコントロールされた速度で滑り、迷いも野心もない。

 

わたしたちは、曇りガラスの向こうを見るような

そんな一定の光を通して、狂うことのない普遍のリズムを見ることが可能になる。

 

ちょうど、写真のバックに、題名を知らない古い映画のサウンドトラックが

聴こえてきそうな感じだ。

 

例えば、見知らぬ町へ出かけた時

そこにある自転車や路地に建つ住宅が写真作品として立派に成立するためには、

そこからどれだけのストーリーを描けるかという努力を

多くのフォトグラファーはするのが常だ。

 

ある人は時間から考慮した陽の色合いであったり

影の形であったり、道行く老人の配置であったり

もしくは非現実的に突然、美女を配置するかもしれない。

イマジネーションを掻き立てようと、必死に作品を撮影してしまう。

 

けれど、同じ状況にエグルストンがカメラを持って立っていたとしたら、

彼はそんなストーリー性をも一見排除した一枚を撮るのだ。

 

そこが、彼の、一番の魅力であり、

世界の普遍を撮り続けてきた人の感性なのだ。

 

この人は何を撮りたかったのだろう?と思わせるような写真表現、

それでいて、言葉では説明できない

どうしょうもなく心に響いてくる写真。

 

彼はそのハードルをいとも簡単に越えることができる。

 

世界が感動する写真は、撮影する者がそこに目をつけなければ

多くの人が見落としてしまう美を、

写真ならではのスピードで切り取ったものであると改めて知らされ

そしてノックアウトにされる。

 

酔った勢いで話してくれたユウ先輩の熱弁は

結局、「やられた」という完全降伏に過ぎなかった。

 

かつてモノクロと暗室でしか作品を撮らなかったひとりのカメラ男子を

今では色気のあるカラー作品で埋め尽くせるような

現代作家に変えてしまったのだから

有名な写真家というだけでは片付けられない、と思うのはわたしだけだろうか。

 

 

 

 

20130528cameracollection02

 

photo @william eggleston

 

 

「こればっかりは仕方がないよね」

ユウ先輩は最後に言った。

「感性は努力ではどうしようもないことがあるよ。」

 

エグルストンの写真にはどう考えても普遍性があり、

揺るぎない美学があり、そこはかとない虚無が存在する。

 

それを裏付けるような言葉が見つからないが、

わたしには、彼の撮った70年代の写真をいま見ても新鮮に

しかもまるでわたしがそこにいて

体感していたかのように懐かしく見ることができるのだ。

 

この感性にやられると、

作家の写真集やプリントを所有したい衝動に駆られる。

 

美意識がずば抜けて優れているとしか言いようがなくて、

わたしたちは途方にくれながら感動するのだ。

 

絶妙な違いのわかるモテオヤジになってきたユウ先輩は

ここ数年、ずっと同じモデルさんを撮り続けている。

 

息がぴったりでまるで恋人同士のように親密な濃度を感じさせる作風になってきた。

決して媚びたりせず、どこまでも普通のポートレイトなのにもかかわらず、

彼にしか撮れない色がそっと滲んでいる。

 

それは、言葉にしたら恥ずかしいけれど、“真実” というものだとわたしは想う。

そして彼の写真作品が確実に違う次元へ発とうとしている証拠だ。

 

 

昨今のエグルストンは世界各国から招待を受けて、世界各地で撮影をしているようだ。

 

自分たちが忘れがちな日常の中よりも、

“普遍的な見たままの姿”を知っているエグルストンの眼を

通したからこそ見える、“真実”を見てみたいと考えているのかもしれない。

 

 

 

 

 読む寫眞 推薦写真集

51fT4PagMpL._SY484_BO1,204,203,200_

William Eggleston’s Guide

 

 

写真史を変えた1976年、

MoMAにて開催された展覧会と同時に

出版された記念的一冊。

現実は、いたって普通であり、

それこそが大切あると視点を持てる。

 

 


 

「読む寫眞Ⅲ」 2015年9月の過去記事を加筆して再掲載しています。

 

 

 

“読む寫眞 Ⅲ” への2件のフィードバック

  1. すべての人がマイウェイでマイモデルで、マイスタンダードなのですよね。
    そんな風にこだわりが持てることが幸せだと感じます。
    こちらこそいつも貴重なご感想、ご意見ありがとうございます。

  2. よき先輩によき後輩。
    モノクロへの執着とモデルとのこだわり。
    溜息がでるほどうらやましいです。
    小生も似たようなことをさせてもらっていますが、
    お二人とは似て非なる道のような気がします。
    でも小生は小生でマイウエイを歩むのみですね。
    今後も心温まるお話楽しみにしています。
    よろしくお願いいたします。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です