17歳のイデア
写真論, 日々の泡

17歳のイデア

 

 

 

 

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5年前、卒業校からの依頼で
O.G講義をしたことがある。

 

 

目の前には38人の17歳たち。

 

 

2周りも年齢の違う後輩を前に
こんなわたしが
写真について語るという

 

緊張以上のなにものかを
強く感じたのを覚えていている。

 

 
どれだけ水を飲んでも
極度の緊張で喉がカラカラに乾いた。

 

 
あの感覚は一体なんだったのかといえば
責任感の質が違うのだと思う。

 
わたし自身はどう思われてもいいし

17歳の彼らが
どう反応しても構わないが、

 

わたしが伝えることの本質にブレがあってはならない。

 

 
発するひとことひとことが
彼らの脳内で翻訳され残ってゆく。

 

 

宇宙人に、わたしは地球人です、と

地球を代表して会話しに行くような怖さがった。

 

 

ひとこと表現が揺れてしまえば
正確に届くかどうかわからないのだ。

 

 
知らない国の言語の発音を伝える時、

聴こうとしないひとにはどうやったって届かない。

 

 

後輩という名の、
住む世界が違う17歳と

先輩という名の知らないオンナ。

 

 
この状況をどうするか?

 

 

プレッシャーが大きくなるなか、
わたしは、全て天に任せる事にした。

 

 
つまり、ぶっつけ本番。

 

 

頭に浮かんだ事を、そのまま伝えればいい。

 

 
事前に考え込んだりせずに、
今までの自分のやってきた事を
そのまま伝えればいいと腹を括った。

 

 

高校の教師陣には
彼らの考えや言葉使いがわかるよう

あらかじめ
アンケートをとることも可能だと言われたが

 
わたしが高校生だったら
そんなヘタレな大人のことなど
信じないと思ったのでお断りした。

 

 

 
彼らと共通用語がない、というのは
距離感を縮めようとする時の言い訳だ。

 

 

 
一方的に彼らの領域に踏み込みたいと思うがゆえに

あれこれ下調べして、
相手の顔色を伺うような

モテないおっさんが女の子を口説く時の
ピント違いな、脂っこい必死さが浮かぶ。

 

 

 
抱えたプレッシャーは大きな領域だけれど

最初に、人になにかを伝えるということは

 

文明や言葉の起源からしても
かなり興味のあることだ。

 

 

 

 

 

講義の内容を伝える前、
わたしは、パリで見た
ラスコーの壁画を思い出した。

 

 

 
あの歴史的壁画を発見した
最初のひとの恍惚感に想いを馳せ

 

太古から宿る、
人間の知恵や伝達について

どんなロマンを見ただろうかと

 

わたしは感動しきって
土壁の前で立ち尽くしたのだった。

 

 

 
あの時の、
初めて触れる未知なる存在を考えると

 

 

わたしは、

わたし自身で
はじめになにを話したか、を

 

数年後にきっと蘇らせることが可能だと
自分を信じられたのだった。

 

 

 

その時、39人の17歳たちに喋った内容は
現在も変わらずにお伝えしている。

 

 

 
年齢や性別が変わったからといって
本質的なことは変わらない。

 

 

 

言葉の表現など、
伝え方を工夫するべきかもしれないけれど

 

 

わたしは敢えて
17歳の魂に話したようにしたいと思っている。

 

 
相手によって自分の表現を変えるなんて
わたしにはできない。

 

 

 
年上の方ばかりだからと言って

 

理想とか理念とかを語る
つまらないオバサンになってしまったら
わたしも終わりだ。

 

 

だから、「耽溺寫眞」の中の
「センス編」に書くことは

 
5年前の初講義に使ったメモの集約なのだ。

 

 

 
初めてだからこそ

純粋に汲み取った

 

わたし自身のイデアなのだから。

 

 

 

 

 

 

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