この土地を初めて訪れたとき、

自分が星の上に立っている実感があった。

 

 

場所に限らず、被写体を決めるときというのは

こんな肌感覚だけでいいのだとはっきり信じられた。

 

 

プロバンスの田舎町は普段生活してる場所と違い

とても広大で、人々があたたかく

 

この頃、こころが疲れ果ててささくれ立っていたわたしにとって

太陽の光と同じくらい重要な温度と匂いがあった。

 

 

なにより、ここで感じた先に自分の写真があると直感した。

 

肉体的にも精神的にも全てを総動員して撮る、という行為が

わたしには合っている。

 

 

これは世間でいう最前線からは抜け落ちているのかもしれない。

 

現代アートという写真界には、

インターネットの画像をコラージュして作品を作ったり

自ら撮影することなく、ファウンド・フォトで構成して

他者のインスピレーションにそって表現するという作家もいる。

 

 

このような最新の手段はとても面白く刺激的で

現代アートとして成り立っていると思うのだが

わたしの場合、まずは体感を通して自分の生に繋がり、

 

そうして身体から出たもので作品と一体化してゆかなければ

納得が行かないという

どこまでも不器用で古い体質なのだ。

 

 

 

だから完全なフィクションというものはない。

 

昔から、わたしなりのリアルさというものを体現したい

といつも願っていた。

 

どこか遠くにいかなくともそれは「在る」のだろうけれど

遠く旅立って孤独になればなるほど

自身に敏感になるのは確かだった。

 

写真はそんな堕ちているわたしを引っ張ってくれる存在だ。

 

 

だから、写真があってわたしは随分と救われたと思う。

 

 

この不器用で危ういどうしようもないわたしが

写真を撮ることで自由になれるのだ。

 

 

どこを撮ろうとか、何をとるかというのは

直感的に引き付けられているから迷いはない。

 

 

いつも直感から始まり

わたしが一番見たいというものの感覚に従って写真を撮り続けていると

途中でコンセプトが追いついてくる、そんな感じだ。

 

 

例えばジグソーパズルがあったなら

まず真ん中にこれだと思うピースを置いてみて

そのまわりに合うピースを置いていく。

 

 

もし空いているところがあれば

そこへ当てはまるものを“撮り”に行くという行為が近い。

 

 

最初にコンセプトを立ててそれに従って制作するのではなく

途中でコンセプトが立ち現れ

わたしの五感にぴたりと寄り添ってくる。

 

 

自分でも訳がわからない衝動にかられとり憑かれたように没頭する。

 

 

そこに作品を作る意味があるのだろうと想うのだ。

 

 

だから、自分の深い意識に敏感で

常に発見しているようにしている。

 

 

せっかく今、この時間、この空間に生きて呼吸しているのだから

常に感じて触れて、発見や驚きを持っていたい。

 

 

そんなわたしは最近、

ますます「光だけ」に向かっているような気がしている。

 

 

ほうっておいたら

光ばかり撮ってしまう。

 

 

光はいろんなものが含んだ「生の象徴」で

それに対し、写真は生を過ぎ去っていく一瞬を切り離し

今を越して封じ込めておくものだ。

 

 

その移ろいを撮ろうとする行為は

すべてを明らかにしたいというのではなく

変化そのものや

目に見えない曖昧さをすくい取ってゆきたいという

どうしようもない欲望の視覚化にすぎない。

 

 

誰にも止めることができない時間の残酷さを

それが残酷な行為だと知りながら

丁寧にトレースし

透明になるまでなんども濾過をしつづけ純度を高めてゆく。

 

 

 

 

そのフェティシズムな残骸さすら

写真を感じることだから。

 

 

 

 

 

 

 

Copyright© maquico kitagawa All Rights Reserved.

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です