「物質と記憶」の冒頭を飾る有名な一節で、

アンリ・ベリクソンはこう記載している。

 

《私は数々のイメージと直面している。

ここでイメージというのは、私が感覚を開ければ知覚され

閉じれば知覚されなくなるような、

最も漠然とした意味でのイメージのことである。

 

これらのイメージはその要素的部分すべてにおいても

私が自然の法則と呼ぶところの一定の法則に従って

互いに作用と反作用を及ぼしあっており、

 

これらの法則が知悉(ちしつ)されるなら

おそらく、各イメージのなかで何が生じるかを計算し

予見することができるだろう。

 

したがって、イメージの未来はその現在のうちに含まれているはずだし、
現在に何も新たなものを付け加えないはずである。

 

しかしながら、このすべてのイメージと

際立った対比を成すようなイメージが1つある。

 

私はそれを単に外から諸知覚によって知るだけではなく、

内部から諸感情によっても知る。

 

そのイメージとは私の身体である。

 

− Bergson 2008 P11−  》

 

 

 

 

 

「イメージの未来はその現在のうちに含まれているはずだし、

現在に何も新たなものを付け加えないはずである。」

 

この部分をなんども繰り返し読んだ5年前の秋のことを覚えている。

 

日常、見る、という行為において、

わたしたちは外面的には、道端に咲く季節の花や木々のこずえや

なめらかな肢体の猫やビルに反射するオレンジ色の夕日を見るかもしれない。

 

 

けれど、内面的には、(そして本質的には)

わたしたちが感じ取るものといえば、

実のところそれらのイメージだけであって

 

わたしたちは自分自身の、感じている身体そのものを

ひとつのイメージとして経験している。

 

 

だとすれば、写真自体は一体なんだろうかと考えた時、

わたしはベルクソンに共感したのだ。

 

 

それは、偶然の一瞬でもテクノロジー時代のランダムな発見でもなく

むしろ万物事象から人間存在を作り出し

人間から世界を作り出す、

まさにそのプロセスに根ざしているのではないか。

 

写真はときどき、わたしたちに対して

人間的ではないような世界のイメージを与えているように思っていた。

 

 

再現=表象という、人間が主体で行うプロセスに縛られない

別次元の事象のように存在しているからだ。

 

 

その代償として、わたしたちと世界のあいだの関係を中断し、

一方では慣れ親しんだもの、反復を、
他方では新しくかつて知られていなかった経験の諸形式を生産する。
 

 

こうしたことすべてを彷彿して写真が教えてくれているのは

わたしたちがもっと遠くまで見えるようにしたり、

 

記憶力を向上させたり、

後世に向けてすべてを記録したりできるようにするツールではなく、

 

反復、自己再生産、コピーといったプロセスを通じて

それまでの経験や記憶が層をなして重なりあった

複数のレイヤーであるということだ。

 

 

見るものを魅了し続ける写真の魅力とは

世界を人間の目に合わせて縮減することなく

見せつづけてくれるものであるのだろう。

 

 

 

少なくともわたしは、

《そのイメージとは私の身体である。》

で在りたいとファインダー越しの世界を感じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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