なにを撮るのか、誰を撮るのか?

ということと

 

なぜ写真を撮るのか?という問いは

同じようでいて随分と違う。

 

この世に、唯一これしかないといった絵画作品や

ゼロからなにかを生じるような

独断性を持っていない写真という存在は、

 

もはや大量生産されるためだけに記録され消費されつづけ、

日常に潜む断末魔のごとく瞬時に排出されてゆく。

 

そこにどう価値を感じればいいのか?

一枚の美しいアート作品を仕上げるためのものではなく

いくら撮り続けても決してフレームにおさめることはできず

 

追いきれない膨大な世界の断片と

たゆまなく流れてゆく時間との隙間を

 

自己と世界のかかわりの中で

リアリテイを見つけるための

わたしにとっての唯一の表現手段としてあり続けている。

 

 

また、ポートレイトのようにダイレクトな視覚的要素に対し

誰をどのように撮るのか?という問いの

 

誰かの主観性、客観性と二分割することは無意味だとも想う。

 

 

カメラという現代社会を視るもう一つの眼として

すべての人類に平等な機械を使い

 

光を媒介にして視たものを可視化させているにすぎないことと、

 

その主観と客観が常に相対化されるものである以上、

 

一枚の写真には、必ずそのどちらの要素も

含んでいると信じているからだ。

 

 

被写体である彼ら彼女らの、

 

そして、わたし自身が不自由に生きる世の中で

いつも自由になることを求めているように、

 

写真を撮ることに関しても絶対的な自由を持ちたい。

 

 

世界はこんなにも真実で溢れているのだから

 

写真の可能性の追求と、

自己の生の可能性とを断ち切る ボーダーラインはないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

mitsuki-11pb1

Leica M3 Kodack T-MAX100

Model: 心月 mitsuki

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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