7回目になりました「五感Cafe」。

五感感覚を育てることを推奨するその最大の理由は

ご自身の純度を高め、ポテンシャルを自然に発揮できるから。

 

今回のテーマは「写真と無意識」。

わたしが個人的に幼い頃から感じている体感について

記憶をたどりながら綴ってゆきます。

どうぞみなさまも遊び感覚で掘り下げてみてください。

 


 

「伝えたい人に向けているからこそ

日常的な場面で作品を撮っているんですね。」

 

写真雑誌のインタビューを受けた時のこと。

初対面の編集の方にそう言われ大変戸惑った経験があります。

 

というのも、正直、一度もそんなことを意識したことがないからです。

伝えたいことや伝えたい人のことを考えて撮影をするのは

「メディア」という表現媒体のことであって

 

作品を撮る、または創るというスタートからの自己表現の世界では

皆無な考え方でした。

 

仮に、作品創りを「伝えたい人に向け」

その基準でやっていたら

わたしは、撮り続けることなどできないかもしれません。

 

そのとき、編集担当の方と価値観のズレを感じたわたしは、

シンプルに「写真とは翻訳することです」とお答えしました。

 

そもそもわたしにとって写真表現とは、

他人の視覚的記憶を刺激するための変換ツールでしかなく

そのことを伝えたかったのです。

 

 

 

変換ツールは人によって様々なので

なんでもいいかと思うのですが

ここではわかりやすく「翻訳」と言います。

 

そのイメージで日頃みなさんが手にしたり

視ることのできる「写真」のことを現していると思ってください。

 

その上で、何を翻訳しているのか?ということを

上記の編集者へお伝えしました。

 

これは、ファインダーを覗いているのは「わたし自身」ではあるけれど

シャッターを押して時間を封じ込めた「写真そのもの」は

他者の中に存在しているものだと思っているので

その両者の世界をつなげている行為のことを意味します。

 

またこの考え方はどのような業界でも言えるのではないかなと考えています。

 

先ほどの質問者(編集者)の記憶や、その人が持っている感覚が

わたしの写真を視たときに瞬時に脳内で変換され

「その人にとって日常的な被写体」

として無意識に選別されている、ということにつながります。

 

つまり、無意識の世界って本当に面白いもので

目の前にある現象のように、

写真そのものもそれぞれの人の中で起こっているのです。

 

その事象(写真)を視たときに沸き起こる感覚は

感情や比較も含め、それぞれの人の中にある今まで経験してきた記憶の蓄積です。

 

また、写真を視るという行為は

ヴィジュアルとして積み重ねられた記録結果でもあるので

誰が撮影したものであってもどのような被写体であっても

オーディエンスの脳内で「視覚化」されている、に過ぎません。

 

もしかしたらあなたは、ここまで読んで

難しくイメージしてしまいますか?

 

五感の一つである「視覚」という才能は

視野と記憶、意識と無意識を濃縮させた

非常にゆたかなものだということを思い出して欲しいのです。

 

それをお話するために

ヴィジュアルについてもう少し詳しく書いてゆきます。

 

 

 

 

仮に、一枚の「湖の写真」を視るとしましょう。

例えばその時、同じ湖の写真であっても

美しいと感じる人=Aもいるし

悲しい=B、と感じて視る人もいます。

 

それまでの「このようなモノ」で知覚してきた感覚が

湖の写真を見ることで、一気に再生されて記憶の奥からのぼってくるので

それぞれの感じ方、見え方は違って当然です。

 

AもBも、両方の感覚をもち合わせる場合もありますし

そのどちらでもない=Cという感覚の他者が撮ったものも

同じ一枚だとしたら、どんどん情報量が複雑になってきます。

 

その上で、わたしが言う「翻訳」とは

その人の中にある記憶を引っ張り出して

言語化できない領域をヴィジュアルで示しているから

「わたしの視る記憶」=写真と

「他者が視る記憶」=写真、という、

2つの領域をつなげている感覚に近くなります。

 

さらに、ヴィジュアルの例をあげると、

例えば

薄暗い古い家屋にひとの手足が写っていたら

見た瞬間、ゾクッとしてしまう、とか

 

または、雑誌の1ページをめくり、

逆光のタンポポ畑で無邪気に遊ぶこどもの写真を視たとすれば

なぜか懐かしく、心おだやかな気持ちになることを

「予想」することもできますよね?

 

 

未知の領域を視覚的に感知するとき

わたしたちの無意識はイメージできる、ということ。

たとえ実際に見た記憶がなくても、行ったことのない場所や

体験したことのない感覚であってもそれは起こります。

 

これは、わたしたち人間の脳内ヴィジョンには、

そういった記憶の集合体が潜んでいる証拠です。

 

ある一場面を視るとイメージが湧き、

まるで経験したかのように記憶が立ち現れるというカラクリを理解すると

「記憶の蓄積」はとてつもない情報量であることがわかります。

 

このことから、わたしは「写真表現」というものは

「他者」をふくめた全ての人間の蓄えられてきた

意識・無意識をヴィジュアル化する

脳内翻訳=トランスポーテーションだと思っている理由です。

 

 

 

 

写真とは、ただの視覚でも2次元の色再現でもなく

最終的にはひとそれぞれに在る

深い記憶に光を届けるための翻訳機の役目をしていて

写真家は、それをうまく扱うことのできる翻訳家であるということ。

 

それは、撮っているのは「写真家」であっても、

視るひとと撮るひと、撮られるひとなど

複雑に視界が交わっていたり

その眼が別方向に向かっているとしても

結局、撮った写真そのものは「写真家」だけのものではなく

 

視ているひとや撮られたひと

その景色や時間だけのものでもなく、

そんな区切りがいっさい存在しない限りなく開ききっている世界であるのです。

 

それは、言葉を越えた思考の先にあるものです。

 

 

表現を変えると、言葉がなく感覚だけで理解できるという

「ヴィジュアルコミュニティーケーション」だと定義しています。

 

実は、この感覚にたどり着いたのは

わたしが大人になってからの話はありません。

 

思い起こせば、公園で宙を舞う蝶々を遊びながら追いかけていた幼少時代。

 

父から譲り受けたカメラでレンズ越しの世界をのぞいていたそのときに

身体の奥に持ち合わせていたようです。

 

近所の草むらでファインダーを覗いた時に得た感動

世界を一枚の写真というヴィジョンに

ぎゅっと束ねた制限のない時間

その時、ただただ心地よく時間を忘れて夢中で追いかける。

 

そのプロセスから現れたものがわたしにとっての

「写真」という表現、ひとつのヴィジョンです。

 

それは、撮影したその現場、時間をふくめた

そこにいた人たちの意識触れる人の意識を可視して

翻訳されているものでもあります。

 

だから、邪心も打算もまったくなく

もっと生理的なものとして生まれてくる。

 

そういった視点でいられると

すべてに宿る純粋性に出逢えるのではないかなと思っています。

 

 

 

そういうわたしも、以前は、写真だけ「単体の存在」として扱い

それ以外のすべてを無視して

目の前の事象や形状だけを追求した時期もありました。

 

けれど、それは突き詰めれば突き詰めるほど

他者が一切伝わらない世界を撮り続けることのほうが

不自然なのではないか?

という考えにたどりついたのです。

 

少なくともわたしは、どれだけ意識しても

そんな風にはできませんでした。

 

わたし、という存在のままで

目の前の事象を視て感じ

波動で聴き

言葉をリズムで読み

他者をふくめた、その空間の光を集めてすくい取る。

 

それが写真、という

とてつもない情報量の上澄みとなって誰かの眼に触れる。

 

そして「視た人」の記憶の中へ入り

そこで生じる時間差やギャップや誤解にドキドキしたり

誰かの感動に生まれ変わるとき、

撮影者であるわたしの悦びへとつながるのです。

 

どのような写真作品であっても本質は同じだと考えています。

 

つまり、作品イコールわたし、ではなく

わたしをふくめた「他者とわたしの間」に存在しているということ。

 

仮に、その時わたしが気に入ったというだけの

悦楽の寄せ集めのなかで時間を弄んでいるだけであったとしても

 

視る人の意識のなかにある

記憶と感情と視覚の蓄積で写真作品が出来上がる、ということです。

 

そもそも、現実に目に見える世界は

「あなた」だけで形成されているのですから。

 

目の前の作品をどう感じるか

ただ、それだけのことなのですが

自分の体感に気づくことは現代社会ではむずかしくて

すぐに目の前の「誰かのため」や「あの人に伝えたいから」

という評価軸が起こってしまいます。

 

それらに翻弄されていると感じ

自分軸に戻りたくなったとき

一枚の写真の存在は自己に気づくきっかけになるかもしれません。

 

 

 

“五感Cafe Columm-7 写真と無意識” への2件のフィードバック

  1. 島津さんの大切な感性を、目に見えるイメージにしていただいて、
    我々見る側はとてもうれしいです。
    これからもカッコいい作品、楽しみにしています。
    こちらこそいつもありがとうございます。

  2. 写真とは、「ひとそれぞれに在る深い記憶に光を届けるための翻訳機」
    いいですね。
    小生にとっては写真は、
    「私に宿る感性を目に見えるイメージにする翻訳機」となりそうです。
    いいお言葉、ありがとうございました。

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