Gradation 集合体としての記憶
写真論, portrait, 白黒写実

Gradation 集合体としての記憶

 

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「作品」とそうでない写真の違いについて

質問があったので

わたしなりの考えを書こうと思う。

 

 

まず、「写真作品」といわれるものは

アーティストや写真家が創作した

「コンセプトのひとつ」だということ。

 

強いメッセージ性はそこに在ってもなくてもよく、

 

写っているものも

特別めずらしいものである必要はない。

 

 

実際、わたしたちが否応なしに見ている

マスメディアに関与した流行や事件より、

 

「写真」そのものは

数センチ先の日常にこそ、

意識して視ることの重要性に

気づかされることが多いもの。

 

 

「写真」は異なる2つの視点から成り立っている。

 

そのひとつは「単体写真」といい

なにかのメッセージを一枚に集約したものをさす。

 

企業のポスターや商品のイメージ広告、

個人では選挙ポスター、

店舗広告などがこれに当たる。

 

理想とするイメージを広く伝えたいという目的があり、

メッセージを一枚の絵に集約し、

一枚で完結したもの。

 

なかには名作と呼ばれる永遠性を感じるものもある。

 

影響を受けた名画のポスターを思い出すとき、

わたしたちは完成された世界へ旅立つことができるように、

 

クオリティーの高い広告とは、

つねに一枚の単体写真で構成されているものだ。

 

 

 

いっぽう、単体ではなく

「連続した写真」というものがある。

 

それが一般的に「組写真」と言われる

物語のある写真の集合体のこと。

 

 

複数の写真の組み合わせによって

視る人にストーリーを想起させ

さらに言葉と融合したものが

 

現在のジャーナリズムや

メディア媒体の基礎として利用されている。

 

 

たしかに言葉だけのメッセージより、

そこに証拠として、記録として

写真が存在していると説得力が断然違うが

それは《真実かどうかは別》だ。

 

 

「写真」は撮影者が

現実と向かい合って生まれた芸術であり、

 

他者が入ることで

いくらでも事実をねじ曲げてしまう

危険性を伴うものでもある、

 

と唱えた代表格が

写真家集団マグナムであった。

 

 

メディア=他者の言葉によって、

イメージの虚偽が行われないよう

 

撮影者は自分の作品を

つねにコントロールすべきだという

彼らマグナムの意見を

わたし自身、深意に受け止めている。

 

 

 

 

 

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「写真作品」という意識の可視化は

数十枚単位で織りなされ物語を生む。

 

それは言葉を超えたストーリーだ。

 

 

けれど、このことは

長らく一般には知られていない

秘密の物語でもあった。

 

その理由は、「複数」として捉えるべき「写真」は

メディアには乗らないからだ。

 

 

写真関係者の中でしか生まれない物語を内包したまま、

 

それ以上、だれかに届くことがなかったのだ。

 

 

だが、デジタル文化が浸透し、

言葉も音楽もコンテンツが無限になったいま

 

「写真」の本質である複数枚で

量と同時に

コンセプトのある世界を見せることが可能になった。

 

 

 

今までのように現実に溢れているのは

商業的価値のある写真しかない、

 

という流れを覆し

 

他のメディアと同じように

それ自体で無限に表現できるようになるのだろう。

 

 

 

「もうとっくに世の中は

写真で溢れかえっているじゃないか」

 

という方もいるかも知れない。

 

 

けれど、それはどうだろうか?

 

よく見るとそれらは

手垢のついた記録写真か

誰かの記念的な写真ではないだろうか?

 

もしくは、

シェアという曖昧な言葉でゆがめられた

 

元手がわからないほどの資料としての写真、

いくらでも替えが効くコピー元のような写真

 

ではないだろうか?

 

 

その証拠に、Kindleような大手メディアに

「写真」そのものが

溢れかえっていてもいいはずなのに

未だ、商業的価値基準でしか存在していない。

 

 

 

わたしは、写真を撮るとき、

一枚で集約しようとしない。

 

ひとつのテーマ、形式、

その向かう先に向けて

ある一定の量を撮影し、

 

その一群を完成させることで

写真と向き合っていた。

 

 

時間を閉ざし、

そのとき立ち現れた自己を

アウトプットしてきたにすぎないが、

 

その中で対峙していった結果、

 

その集合体としての記憶の断片のなかから

 

一枚の「写真」として

生まれるものだと考えている。

 

 

それが、世間で言うところの

「作品」という位置づけになるのならば

きっとそうなのだろう。

 

 

実のところ

一枚の絵に集約したメッセージが

広告写真だとすれば、

 

世界的傑作や優れた芸術を覚えるそれらは

実は単体ではない

ということをお伝えしておきたい。

 

 

どの作品も連作のなかから選び抜かれた一枚なのだ。

 

そして、本当の傑作とは

そういうものなのだろうと思わずにいられない。

 

 

世の優れた作品がヴィヴィッドな光を放つのは

一群の色のグラデーションが折り重なって

かがやきに深みを増しているからなのだ。

 

 

今後、わたしたちが目指す方向は

一枚の傑作を撮ろうとするのではなく、

 

独自の思想を染みこませた物語だ。

 

 

ある特定色の、

連続したグラデーションを作り続けた先に

 

日常では捉えられない時間の流れを

可視化することができる。

 

 

それは、もしかしたら

写真に限らないのかもしれない

 

とわたしは思う。

 

 

あなたの向かうその先の物語は

一体なんだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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