《イメージは無限の可能性を造形し

言葉はただ1つの確実性を定着する》

と残したのは敬愛するロラン・バルトだった。

 

知り合いの写真展へ出向いた時のこと。

写真展会場になっているジャズバーの仄暗い空間の中、

作者に感想を求められ

作品をまとめたブックを渡されて

なんと言えば良いかわからず言葉を濁してしまった。

 

作品はとても繊細で好みの描写であったのに

それをどう伝えたらいいのかわからなかったのだ。

 

さらに、記帳する人が少ない会場。

作家が困り果ててわたしにペンを渡した矢先、

このパラレルワールドに陥ってしまった。

 

一瞬、訪問者用の記帳欄は空白なまま

気の利いたコメントが書けずに

しばらくペンが宙に浮いたままに。

 

 

言葉にできないから写真を撮る人に対して

それを言葉で伝えるなどおかしなことじゃないかと思う人が

多く存在するのもわかる気がする。

 

 

わたしが観た作品は抽象的なイメージのする

モノクロが多かったのも

オーディエンスが感想を残さない要因のひとつだろう。

 

確かに、それぞれが作風から想う意味は

あえて限定しないことが美徳となると

頑なに信じている人も多い。

 

どこまでも果てることのない

精神への広がりを感じる写真に対して

言葉で表してしまうのは

自由に飛び回るからこそ美しい鳥を

籠の中に入れるようなものだと想うのかもしれない。

 

けれど、この観覧者の言葉による重層感は、

創作者ならわかる感覚だ。

 

 

そもそもなぜ、感想を求めるのか。

 

「作品への感想=印象」

それを言葉にしてみようと努めるのは

現代ではその「印象」こそが作品に命を与える

大切なエネルギーになるからなのだ。

 

写真展や展示会へ訪れる人であれば

この作家と観覧側とのエネルギー交換の仕組みを

肌感覚で味わうことができるのではないだろうか。

 

その空間にいる人たちがもった感情、感想という言葉が

空間に生きた波動を持たせ、

作品の意味を昇華させてくれる。

 

創作者というのは、自分から生み出された

身勝手な「もの」に呼び名を与え、

他人にもそれを強要し世間の眼に触れされることが

最終ミッションだとすれば、

 

「もの」の意味を完成させるのは

それに触れ体現したオーディエンスたちなのだ。

 

わたしは、この感覚は、映画とよく似ていると思う。

 

 

どんな映像作品も、上映されたところで完成なのではなく

観覧者たちが映像に接触した場のエネルギー、

その見えない力と心震わせた感想によって

作品として独り立ちをする。

 

 

それは作家も同じことなのだ、

とペンを持ちながら気がついた。

 

 

天才的な作品感想の記載をする人に出逢うと

わたしは心から嬉しくなる。

 

写真展に限らず、インスタレーションとは

展示スペースにある額装や、作品の並べ方

照明の使い方、空間に流れる音楽まで全てが

作品を構成する要素であることを

「感じる」ことができる人が本当に少ない気がする中、

 

なにかと比較したり技術的理解などを度外視した

言葉を書けることは、作家への素晴らしいギフトとなるのだ。

 

いつの間にか、

わたしが持ったペンは動き出していた。

 

作品への感動を肌で感じ、

言語化することができる人に

わたしもなりたいと強く願ったことが

指先に伝わったのかもしれない。

 

いま、こうした新しい自分の感覚と、

ここにある1枚1枚はすべてが空間の断片であり、

それら集合体としてのメッセージになる。

 

 

バルトが言う「確実性を定着」を

持てたかのかどうかはわからない。

 

けれど、

作品に生命力を与える印象を

丁寧に手渡した時、

わたしは、作品の1部になれた気がする。

 

 

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