知覚せよ、と印度が
日々の泡, 随想

知覚せよ、と印度が

 

 

 

 

 

 

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NikonD800  Milvus 1.4/50

 

 

 

 

 

国やその環境によってアートの主張は異なる。

 

 

けれど、現在、その表層は似通っていて、

どこもかしこも同じような文化や生活に人々が暮らすようになると

アートもその一部となってゆくような気がしてならない。

 

 

写真表現などはその最たるもの。

 

世界中で綺麗な画像が流出し、

産業として成り立っているのは暗黙の内だ。

 

その性質は音楽とよく似ていて、

ヴィジュアルと若者との関係は場所を選ばず一緒としか言いようがない。

 

 

哀しいことに、それは時間を伴った

消耗品でしかないのではないかとさえ感じることも多い。

 

 

 

では、目の前にあるこの絵はなんなのか。

 

 

インドの神話が描かれた驚異的な描写と

インド・アートとは似て非なるものだ。

 

 

厳密には、ひとくくりになど出来るわけがなく

こめられた意味も、描く姿勢も違う。

 

 

神画とは、語り継がれる物語を言葉ではなく

音でもなく、

人の生き様を描くという観点から捉えられた

熟練した技法である。

 

 

 

そして、インドアートとは、

 

めざましい経済発展とその根底にある階級制度などの古典的な風習文化の中で

模索し続けてきた最新アートのことをさすのだろう。

 

 

多民族、多国語の超過密国家でしか生まれない感覚がある。

 

 

 

インドの、まさしく混沌という名にふさわしい

内的な必然性が可視化されているのがインドカルチャーだ。

 

 

文化という背景がアートなのかもしれない。

 

 

日本のアートカルチャーが、「軽く」「淡く」「速く」

「意味なく」「カワイく」「ゆるく」

 

を共感キーワードとしているのであれば

 

写真のこの絵はどこにも当てはまらない。

 

 

 

だが、わたしは想う。

 

ダイナミズムと神秘性、哲学や神の存在といった

人間の基本原理ともいえるインスピレーションを

我々が手放さない限り

 

この作品で象徴とされている神の存在が呼び覚まされるだろう。

 

 

 

純粋な芸術を、ただ感じる

ということに対峙するとき、

 

わたしたちは驚くほど身構えてしまう。

 

 

 

本質よりも実用性、機能性を取り入れた結果、

 

「知覚する」という機能を置いてきてしまったのかもしれない。

 

 

 

国境や人種を超えた表現がアートである以上

これからのアートは、より精神性に向かって

内的な研究をすべきなのだろうとわたしは想う。

 

 

内的世界の探求とは、

より積極的にあらゆるものの虚飾の外側を剥ぎ取り、

 

「純粋に感じること」を取り戻そうとする

戦いのような意味を持っている。

 

 

 

そして、いま、

 

消耗されるだけの画像としか価値のなくなった写真そのものに

一体なにかできるのか?

 

 

日々問い続けているわたしとって

 

この絵と絵描きの魂が

無限の領域へ手招いてくれている気がして

 

 

忘れかけていた無為の悦びが

全身の隅々に伝わってゆくのだ。

 

 

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