花彩
写真論, 日々の泡

花彩

 

 

 

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花を活け、その生命力を眺めながら

つかの間の色彩を感じることは習慣となっている。

 

春には淡くやわらかな色彩に包まれたい。

 

夏は清々しく、または濃厚な緑や黄色といった

日常の延長にはない色を欲し、

その毒々しさもまた受け入れている温度を

ファインダーから覗きたいと思う。

 

 

秋は成熟した色香を感じながら

植物の命の欠片を眺めていたいし

 

やがて来る冬には

葉を落とした枝のシルエットを

モノクロームにおさめたくなる。

 

 

特別な日を演出する空間だけのために

花々はあるわけではない。

 

 

すぐに消え去っていしまうような儚さなら

なおさら写真に記録してもいいのだと今なら思う。

 

 

撮り初めに抵抗を感じることもあった。

 

いつでも赤い花だった。

 

 

赤い花は、肉眼で眺めれば微妙な色合いに満ちて

 

艶かしさと香りを感じることができるのに

 

どうしてもグロテスクに写ってしまう。

 

 

 

彩度を落とすと質感が失われてしまうし

ゆるやかな滲みを持たせて撮ると

 

凛とした赤の存在感が消失し

ぶよぶよと締まりのない別の生き物に見えてしまった。
 

どうしたら露骨な表現ではない赤が残せるのか、

わたしはずっとわからなかった。

 

 

発色の良い朱赤や真紅は好きな色だ。

 

 

けれど、身に付けるものは口紅やマニキュアくらいで

 

上手く自分の中に取り入れることができずにいた。

 

 

まるで未知の薬のように、使う分量を間違えると

 

危険でしかないような扱いになっていた。

新しい切り傷から流れる血ですら

表現できない赤い花の色の複雑さを前に
わたしには撮れば撮るほど思うようにいかない

理解しがたい色彩だと感じるようになった。

 
その頃のわたしは
自分の写したモノや事象が

直接それだけを現すことだと考えていたのだ。

 

 

 

「赤い花」それだけを、

永遠に記憶に焼きつけるように

シャッターを押せばいいと思っていた。

 

 

写真とは、わたしが視て感じた世界の

ほんの一部でしかないことに気づかなかった。

 

 

 

ある雨あがりの朝。

 

刻々と変化する景色にわたしは覚めた。
 

樹々の濡れた黒が水分を蒸発して赤みを帯びてゆくことや

曇り空に似た紫陽花が

鮮やかなブルーに発色してゆく変化そのものを

欲しくてたまらなくなった。

 

 

眩しい午後の木漏れ日や

それを受けるわたしの瞼もまた

 

わたしの身体を通じた世界の一部だということを
はっきりと感じることができた。

 

 

そうして、血より鮮やかな赤が
黙ってそこに在ることの伝わりを描けばいい。

 

 

夏の終わりにみつけた海の蒼。

 

ヘッドライトに透けた夜光虫の白。

 

西陽にうなだれたバラの花の赤。

もしかしたら、いま目の前にある赤は、
わたしの肉体とまだ出逢っていない色かもしれない。

 

 

光を吸って甘く輝く花びらを食べ

わたしの血や肉にしてゆけば

 

ファインダーを覗いているこの瞬間から

別の世界の一部になってゆく。

こうして未知の色を背負ってなにかを見続けるなら

わたしの肉体から出た新しい色を

誰かにあたえることができるだろう。

季節の花を撮るようになって

写った花の写真がわたしなのだと思うようになった。

 

 

根を切り取られていても

花弁が色あせていても

 

その時の季節や温度

花の甘い存在そのものまで飲み込んだ
わたしなのだと自覚するこができる。

 

 

だから、

季節がめぐるごとにうつろう

 

儚い記憶を残しておこう。
 

変容するわたしと世界のために。

 

 

 

 

 

 

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