NIKON D850 ZEISS Milvus 50mm

Model 心月 MITSUKI 

 

 

 

「物質と記憶」の冒頭を飾る有名な一節で、

アンリ・ベリクソンはこう記載しています。

 

 

《私は数々のイメージと直面している。

ここでイメージというのは、私が感覚を開ければ知覚され

閉じれば知覚されなくなるような、

最も漠然とした意味でのイメージのことである。

 

これらのイメージはその要素的部分すべてにおいても

私が自然の法則と呼ぶところの一定の法則に従って、

互いに作用と反作用を及ぼしあっており、

これらの法則が知悉(ちしつ)されるなら

おそらく、各イメージのなかで何が生じるかを計算し

予見することができるだろう。

 

したがって、イメージの未来はその現在のうちに含まれているはずだし

現在に何も新たなものを付け加えないはずである。

しかしながら、このすべてのイメージと

際立った対比を成すようなイメージが1つある。

 

私はそれを単に外から諸知覚によって知るだけではなく、

内部から諸感情によっても知る。

そのイメージとは私の身体である。− Bergson 2008 P11−  》

 

 

 

「イメージの未来はその現在のうちに含まれているはずだし、

現在に何も新たなものを付け加えないはずである。」

 

 

5年前の冬。

わたしは、この部分をなんども繰り返し読んだのを覚えています。

 

写真を撮る本質を想うとき、

日常のなかで、「見る」という行為について考えさせられることが多いです。

 

例えばわたしたちは、外面的には、

道端で出逢う季節の植物や木々のこずえや

なめらかな肢体の野良猫の歩みや

ビルに反射するオレンジ色の夕日を見ていますが

 

内面的には、(そして本質的には)

わたしたちが感じ取るものといえば、

実のところそれらのイメージだけであって

 

わたしたちは自分自身の、

《感じている身体そのものをひとつのイメージ》

として経験しているだけにすぎないのです。

 

だとすれば、写真自体は一体なんだろうかと考えた時、

わたしはベルクソンに共感することが多い。

 

それは、偶然の一瞬でも

テクノロジー時代のランダムな発見でもなくて

 

むしろ万物事象から人間存在を作り出し、

人間から世界を作り出す、

まさにそのプロセスに根ざしている、そんな論理。

 

わたしは、ときどき

写真という実態はわたしたちに対して人間的ではないような世界のイメージを

与えているように感じることがありました。

 

再現=表象という、人間が主体で行うプロセスに縛られない

別次元の事象のように存在しているように感じたのです。

 

別の次元というのは、つまり

わたしたちと世界のあいだの関係を中断して

一方では慣れ親しんだものや、その反復を

もう一方では、真新しくて、これまで知られていなかったような

経験の諸形式を生産して、わたしたち人間の五感に写させるのです。
 

こうしたことすべてを彷彿して写真が教えてくれているのは

わたしたちがもっと遠くまで見えるようにしたり

記憶力を向上させたり

後世に向けてすべてを記録したりできるようにするツールではなく、

 

反復、自己再生産、コピーといったプロセスを通じて

それまでの経験や記憶が層をなして重なりあった

複数のレイヤーであるということだと想うのです。

 

見るものを魅了し続ける写真の魅力とは

世界を人間の目に合わせて縮減することなく

見せつづけてくれるものである、ということではないでしょうか。

 

 

少なくともわたしは、

《そのイメージとは私の身体である。》

 

で在りたいとファインダー越しの世界で佇んでいるのです。

 

 

 

 

 

 

作品集のお知らせ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です