秋の展示が気になる時期。

アート界にとって大きなイベントが集中している頃でもある。

 

写真コンペションの締め切りも多く、

絶対に間に合わせるようにと日々捜索しながら

アーティストたちのポテンシャルを発揮できる機会だ。

 

もれなくわたし自身も、もう一度過去作を洗い出したり

もっと良いものがあるはずだ、もっと上手く現像できるだろう、

とMOREを求めて最後のあがきが出てくる頃でもある。

 

アーティストはこの時期、

狂的にならないといけない。

 

執着心とか執念とか、なんとでも言ってくれ、とばかり

ここでセルフイメージを超えないといけない壁に直面するのだ。

 

フォトグラファーに限っていえば

おそらく、この時期に過去作を振り返り、

眠っていた作品を改めて現像し直したり

真摯に自己と向き合った人だけが

次の創作のレベルを超えることができる人なのではないだろうか。

 

 

わたしもそんな壁を目の前にして数週間を過ごしている。

 

窓の外は樹々が秋色に染まる公園が見える。

 

ウズウズする気持ちを抑え、Macに張り付きながら

大量のデータと格闘し、普段なら決して振り向かない時間を

あえて逆戻しする孤独な作業がつづく。

 

そして、このとき直面するのがセレクト能力だ。

 

過去データをチェックしていると

「え?こんなの撮っていたっけ?」

という見逃していた「いい作品」に出逢う。

まさに過去の眠りから解凍させる瞬間がくる。

 

日に日にクリスマスの気配がして睡魔も手伝う頃、

自分の棚卸しとでもいうべきこの隔離的な作業によって

自己対話がいっそう深まってゆく。

 

 

皮肉なことに「いい作品」だと勘違いしていたデータを

もう、必要がなくなった妙なこだわりだと納得して

ハードディスクから捨ててゆくのは、

案外、軽やかな作業だったりする。

 

 

逆に、こんないい感じの撮っていたっけ?

という幻のデータを見つけた時の新鮮な驚きとワクワク感は

誰ともわかちあえない快楽的蜜の味として

確実に癖になるのだから、これもまた面白い経験だ。

 

 

自分の作品とはいえ、何ヶ月も前の忘却していたデータを発見すると

なんとも言い難い感動がある。

 

 

まるで別の人がそれを創り、はるか長い時間の経過を経て

別の次元でわたしが眺めているような俯瞰的思考が

いっそう、その幻の度量を上げてくれる。

 

このとき感じる熱が、創作には必要なのかもしれない。

 

自分で創った(写真であれば撮影した)感覚がほとんど感じられないほど

執着心のないデータに組み込まれているモノを

どうやって今の自分の意識で昇華するのか?

という幻想のような課題が生まれるのだ。

 

まさか、今から来週のコンペ応募に間に合わせる気?

忙しいのにどうしてこんなことをやっているの?

作品はとうに仕上がっている時に限って

こんなインスピレーションが降りてくる。

 

 

けれど、このタイミングで出てきてしまった過去作を

「見なかったこと」にはできないのだ。

 

さりとて、どうしても早急に仕上げなければならない、とか

予定もしていなかった国際コンペションへ絶対応募しなければならない

ということも全くない。

 

いくら良い作品だからといって

現段階のスケジュールを狂わせてまで過去作に向かうこともない。

 

だから、「こんないいのがあったんだ・・・」

そう気づくだけで良いはずなのに

なぜか、もう、この時点で『別の自分』が動き出してしまう。

 

まるで瞬間冷凍された「いつか」の過去のデータを

一刻も早く自分の手で温め直して見て見たい、

と、脳内が合唱しているみたいだ。

その声に反応し、勝手に手が動いてしてしまう。

 

ちょうど、大掃除をしていて昔のアルバムを見つけてしまい

その場で没頭したまま掃除どころではなくなっていた・・・

あのブラックホールにすっぽりと覆われてしまった時間に似ている。

 

「こんないいの」を

「なぜ、見逃していた」のか。

なぜ、「この一枚」を選ばなかったのか・・・

 

ハテナマークがいくつも連続して脳内に浮かんでくるのを

誰にも止められない。

 

この作品セレクト能力とは

「第2のシャッターチャンス」と呼ばれるくらい重要な作業だ。

 

写真を選ぶとき、そこには何らかの基準があるはずなのだが

連続写真か単体か、と分けた場合、

セレクト理由がはっきり違うことは言うまでもない。

 

さらに、ただその作品が

「きれいに撮れた」「うまく撮れた」といった程度だと、

結局は誰でも撮れるような写真ではないか、と気づくのだ。

 

過去作で選ばなかった「こんないいの」と対峙するとき、

それらは、個性が感じられにくい

「ベストショット集」のような作品であることが多い。

 

現代美術の世界的コンテストは

「個人的ストーリー」や「被写体との関係性」・「哲学」に注目される。

つまり、アーティストが、大量のデータの中から

どのような写真を選び、どのように構成するかでコンテストの評価が決まるのだ。

 

その基準となるのがテーマやコンセプトであり

うまく撮れた、という自己認識や感情を取り払わないといけない。

 

セレクト能力の恐ろしさはここだ。

たとえテーマやコンセプトを意識しながら撮影できても、

肝心の「写真を選ぶ目」がこれまでと同じでは意味がない。

過去の自分を塗り替えて

いままでの概念にとらわれないようにしなければならない。

 

わたしにはこれが相当難しい。

執着心や執念はとっくに取り払い

『完全に別の人の眼』になってしまいたいと強く願う。

 

過去作に惹きつけられてしまうのは

この別の眼に少しだけ近づけているかもしれないという

淡い期待からの感触を覚えるからなのかもしれない。

 

いま、眼のまえに現れるのは

セレクトしなかった過去のデータたちだ。

 

 

 

以前、セレクト能力のたいせつさ、

審美眼の持ちかた、恐ろしさについて書いた。

 

わたしが言いたかったのは

自分が伝えたいことが表現できている写真を積極的に選んで欲しい、

ということだ。

 

避けたいのは、過去に囚われただけの消極的なセレクト。

 

世間の流れやルール、セオリーとされているものと照らし合わせながら

「あれはダメ」「これはウケない」などと外していく

「消去法」をやっていないかどうか?

もしそうであるならばすぐに切り替えて冷静に俯瞰したい。

 

世論に合わせた「消去法」であれこれと迷ったあげく、

最後に残ったものが本当に自分にとってのベストショットなのかどうか

気づくと思う。

 

いま求めているテーマやコンセプトに沿った作品へ

まとめ上げることができるのか?

 

他者視点で選んでゆくうちに個性が打ち消され、

常識どおりの画一的な写真が残っていないかどうか?

あちこちで良く見かける誰かの写真と似ていないか?

 

評価されるはずの個性的な写真も

このような選びかたでは誰からも選ばれない。

 

撮影の時と同様。

自分の視点や発想に自信を持って

テーマやコンセプトに合った写真を選びだし

作品にエネルギーを注ぎ込んでゆきたい。

 

どんなにきれいに撮れていても、

テーマやコンセプトから逸れている写真は

思い切ってセレクトから外す勇気も必要。

 

逆説的に、撮影直後にイマイチな瞬間だったと思った写真を

無意識に消去するしていないだろうか確かめて欲しい。

 

それらの写真の多くは、他の人から見れば

心揺さぶられる作品であることは少なくないからだ。

 

写真は時間を封じ込める。

だから未来に向けて取られた可能性もある。

 

「いま」の自分のフォーカスだけで写真を整理し

時間を消去してしまっては何もならない。

 

視点や意識が変われば、感性ではなく

無意識にシャッターを押した時間が

優れた作品になることを信じていたい。

 

あなたのセレクト能力も。

 

 

 

 

IDEA ART BOOK

 

 

 

 

 

“NIKOND850 全てのカメラ女子たちへ 五感で受けて立て4  作品セレクト能力編” への3件のフィードバック

  1. ありがとうございます。
    ある意味。唯我独尊。
    孤独な戦いですね。

  2. 他者の視点もまたセルフイメージの鏡かと思っていますが
    そこへ(承認へ)かけるエネルギーを
    自分へたっぷり注ぐ方が楽しいですよね。

    いつもコメントありがとうございます。
    島津さんなら大丈夫。
    「狂的」でいきましょう。
    応援しています。

  3. 勉強になりました。
    昨今のSNSの「いいね」「♡」などの評価に、
    惑わされてはいけないと思いつつも、
    何かしら影響を受けています。
    絶対的な数の多さは気にしないのですが、
    相対的な数の違い何が理由と考えること多々あります。
    自分の感性を信じたいところではありますが……

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