戸棚から古い写真が出てきた。

 

昔撮った人物写真をじっくり見ていると、

自分の弱点が如実に浮かび上がる。

この頃、わたしはどう写真に向きあい

なにを想いどう過ごしていたのかという

背景さえ時空を超えて浮かび上がる一枚一枚に視線を巡らす。

 

 

いつだってわたしは、

好き勝手撮っていることがわかるから

写っている人物も興味深い。

 

 

そこに残されたいくつもの顔は、

誰かに頼まれたわけではなく

自分の好きな人たちを好きなようにおさめた幸せな時間の束だ。

 

 

 

わたしがよく間違われることがある。

さぞ自由奔放で、あなたらしい写真を撮っていて

なんの迷いもなさそうだ、というオーディエンスからの視点だ。

 

 

だが、それはまったくの期待はずれになる。

 

 

自分勝手によく知っているひとたちだけを撮るからには

 

実を言えば、あらたまってレンズを向けるとなると

お互いに照れたり、妙に不自然な笑顔になったりして

調子が狂ってばかりなのだ。

 

 

お互い意識過剰な中で撮っているので

ポートレイトの構図もなんだかギクシャクしている。

 

 

これは引いていいのか寄るべきなのかハッキリとしないし、

自然な距離感を保つようにしても

どこか不自然な仕上がりになっている。

 

 

顔と体を入れた引き構図も迫力に欠けていて詰めが甘い。

 

こうして過去の自分に対峙した時、

もう一度、わたし自身に言い聞かせなければいけないことは

「ポートレイトとはいったいなんだろう?」という

永遠の問いを受けて立つことだ。

 

誰もがカメラではなく携帯電話で撮るようになって

こんなことは深く考えるような時代ではないのかもしれないが、

誰に言うのではなく、

ひとりの写真家としてあえて明確な定義を持ちたい。

 

いつだったか

世界の地の果てアイルランドの「天使の断崖」を訪れたとき

遠吠えのような海の響きと、

大地に広がる黄金色の草原に魅せられてしまった。

 

 

そのとき、鼓動の音のような海鳴りが

立ちすくむわたしの全身をおおった。

 

褐色の岩肌に見える地層に指を這わすと

何億年もの地球の歴史を確かに感じて

わたしの心臓は地球の音とぴったり重なった。

 

この時、わたしは意識だけになった。

 

 

わたし、という思考を包む器、つまり魂の入れ物という

肉体は溶けてなくなっていた。

 

 

もし、生きて呼吸をしている

生きるこの地球という星がひとつの顔だとしたら、

地層の表面にはこれまで辿ってきた

ありとあらる歴史が存在しているはずだ、と思った。

 

 

わたしは、それをもっと見たい。

 

 

貪欲に目の前の風景に語りかけ、見たい見たいと欲していると

地球はたくさんの言葉を語り出してくれた。

 

 

人の顔には、わたしたち人間の生がしっかりと刻み込まれている。

 

 

東洋、西洋、アフリカ、白、黄色、黒、赤、

仏教徒、カソリック、ヒンズー、イスラム、

 

DNAのわずかな違いを全部ひっくるめてすべて人間だ。

 

 

遺伝子に刻み込まれた記憶に秘められた

いつの時代でもどんな人種でも全ての人間が共感できる

遠い過去でわたしたちが経験していたような

感情を呼び起こすポートレイトを撮りたいと思う。

 

 

ファッションで取り繕った人形を撮るわけでなく

誰かに見られたいだけの媚びでもなく

 

この前、同じ写真を見たときには何も感じなかったのに

なぜ今日はじっと見てしまうんだろう、とか

こんな素晴らしい景色なのに

この人のまなざしはどこか淋しげに見える・・・・

 

そんな人の表情を見ながら

つい意識の迷宮に入り込んでしまい

気がつくと、自己の意識の深くにたどり着いている

そんなポートレイトを撮りたいと願う。

 

そんな考えを巡らしながら、

もう一度古い写真を手に取り、じっと見て問いを浮かべる。

 

すると、長い間わたしの中で越えられない壁が

アイルランド島の断崖のごとく孤高に立ちはだかってくる。

 

「なぜ、撮りたいポートレイトをストレートに撮れないのか?」

 

それを邪魔する一番の敵、それは

誰かに気に入られる写真、

被写体が喜んでくれる写真を撮ろうとするわたし自身の心だ。

 

 

直感を信じてレンズを向ける被写体を前に描いたイメージは、

必ずしも今、欲しいと思っているイメージと一致するとは限らない。

 

たとえば、仕事の依頼でモデルが笑っている表情が欲しいとか

悲しんでいるシーンを依頼したいなどの目的が決まっているのであれば

とことんそれを狙えばいいのだが

パーソナルな写真であれば何を撮ろうが

本来のわたしの意思と直感だけがカタチになる。

 

 

それは素晴らしく自由で、孤独で

どうしようもない欲望に満ちているはずだ。

 

しかし、いつまでたっても自分のこころの欲求をストレートに現せない。

 

特に最近は、どんなひとでも写りが良いように自分のポーズや

顔の作り方を決めている人が多い。

 

SNSなどを見ると自撮りのコツや、表情の角度をよく研究していると感心する。

 

わたしは、ポートレイト写真を撮る時

彼女たちのそういう決めのポーズや表情を崩すことに苦労すしているのに。

 

その妙なこだわりが捨てきれないのは

わたしが撮りたいのはその人の得意な表情や、

ひとのアルバムを笑顔で満たしたいからではないはないからだ。

 

印象やルックスは本人では分からないだけでなく

もしろ、「本当の姿」には多くの場合拒否反応を示すものだ。

 

せっかく写真を撮るのだからモデルにも喜んでもらいたい、

という気持ちと

この機会はもう二度とないかもしれないのだから

目をつぶっていようが顔をしかめていようが、不安そうな表情であろうが

ポートレイトとして光るものがる写真を撮りたい、

という気持ちの狭間で揺れ、

 

多くの場合は前者を選び、モデルに喜ばれたとしても

自分としては納得のいかない写真に落ち着く。

 

 

もし、ほんとうに光る一瞬を撮っていたのなら

写真を見せられたその時はガッカリしても、

数年後、数十年後に

「ああ、そうだった。これが本当だ」

と唸る写真になるのだと信じているのだけれど。

 

 

振り返りながらなんども心の声で語りかける。

 

ポートレイトを撮るうえでの一番の敵は

相手を喜ばせようとする中途半端なサービス精神だ。

 

 

「写真を撮る時はいい人である必要はない」

 

忘れていた古い写真がわたしにそうに告げる。

 

 

そうだ。

 

本当に欲しい物があるのなら、

それが現われるまで辛抱強く待つことを覚えたはずだ。

 

天使の岸壁から風とともに現れた

地球の顔を見たい、と願ったあの日に。

 

 

 

 

 

 

 

 

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